COVID-19以後の表現とビデオゲーム用語から考える
松永伸司
アジア日本研究ネットワーク第5回会議
アジアにおけるパンデミック後の日本学を考える
2022.03.05
自己紹介
今日の発表のお題とねらい
🐪
2021年4月から文学部のメディア文化学専修の教員になった。
専門は美学、とくに現代英語圏の哲学をベースにした、芸術や美的文化についての哲学(いわゆる分析美学)。
主な研究対象としてビデオゲームを扱ってきた。
その他、現代のポピュラーカルチャー全般に関心がある。
詳しくは以下を参照。
イェスパー・ユール『ハーフリアル』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年
今日は、専門の話というよりは、コロナ禍以降に文化のありかたについていくつか考えていることについて、聞いてもらう機会にしたい。
大きくわけて、2つの話題を扱う。
(a) 現実の状況は、芸術表現にどのようなかたちで影響を与えるのか(あるいは、芸術表現は現実の状況をどのように活かすのか)。
(b) 芸術表現は、現実の理解にどのように影響を与えるのか。
※ ここでいう「芸術表現」は〈工夫をこらした表現〉〈ちょっと攻めた表現〉くらいの意味。〈高尚さ〉や〈ハイカルチャー〉といった含みはない。
※ここでいう「現実」は〈日常世界〉くらいの意味。存在論的な含みはない。
前半:〈現実 → 芸術〉のパート
コロナ禍という状況のなかで可能になった新しい表現の具体例を紹介・分類する。
そこから、一般に現実はどのようなしかたで芸術表現に影響を与えるのかについて考える。
後半:〈芸術 → 現実〉のパート
ビデオゲーム用語が現実を理解するために使われている具体例をいくつか紹介する。
そこから、一般に芸術表現やその概念化によって現実の理解がいかに左右されるかについて考える。
具体例の紹介と分類
一般化
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内容(モチーフ)レベルでコロナ禍の状況を利用する表現。
相原瑛人『ニューノーマル』
マスク着用が標準となった世界で、マスクで顔半分を隠すことに新たな意味が付与されている設定のマンガ作品。元になるマンガは2020年8月にTwitterに投稿された。
関係する話題:
「作品の中でもマスクはいるのか」
※ 以下の事例と分類は、宮本道人のnote記事(宮本 2020)と宮本との対談(河合 2020a; 2020b)に示唆されたところが大きい。とくに事例の一部は、宮本の提示したものをそのまま借用している。
内容(テーマ)レベルでコロナ禍の状況を扱う表現。
森泉岳土『アスリープ』
コロナ禍での従来に比べて不自由な状況を、作品の問題意識のひとつとして暗に取り上げているマンガ作品。
※ 『アスリープ』については萬屋博喜の教示による。
森泉:普段の生活という意味ではほとんど変わってはないですけど、閉塞感はどうしてもありますよね。いくらインドア派の僕でも、家から出る気がないので出ないというのと、いざ出ようと思っても出られないというのでは、状況が全く違いますから。『アスリープ』の中でも描きましたが、結局、僕達は2重の意味で檻に閉じこめられてるんですよ。1つは家の中で自粛しなければいけないという空間的な意味で。そしてもう1つは未来の約束ができないという時間的な意味でです。「明日会おうよ」とか「来週どこどこへ行こうよ」という話が、少なくともこの作品を描いている時はできなくて、つまりこれは、「今」という時間の中に閉じこめられているんだと。過去はある、今もある、でも未来はない。〔…〕
山の頂上と足元を見て前へ進んでいくというのが僕の基本的な人生のイメージなんですけど、自分の足元しか見えない中でどこかに行けと言われても、どうしたらいいかわからないんですね。作品は、どうしたって現実のリアクションという部分がありますから、今回はそのあたりは作品と現実が接続していますね。
確かに、多くの人が直面している状況とシェイドが置かれている状況〔=The Longingのプレイヤーキャラクター〕は、不気味なほど共通点が多い。ゲーム中に表示されるシェイドのつぶやきは彼の精神状態を表現するだけでなく、わたしたちの気持ちまで代弁してくれるかのようだ。
ピタ〔=The Longingのディレクター〕いわく、このゲームの狙いは時代を映し出すことではなく、デトックスの役割を果たすことだったという。利便性やお手軽な満足感が称賛されるこの時代、ピタは「退屈が生む苦痛」に意義を見出している。〔…〕
また、ピタがこのゲームにエンディングを設けていることも素晴らしい。厳密に言えば、数種類の異なるエンディングが用意されているが、ピタはプレイヤーに対し遊ぶのは一度限りにとどめておくようすすめている。どのような結末を迎えたとしても、その結末に心のやすらぎと意味を見出せるようにするためだ。「物語は終わったのだ、と実感してもらえればと思っています。キャラクターは終わりにたどりつき、あなたが彼の運命を決めたのです」
コロナ禍の状況によって使われ方・位置づけが変化した表現。
任天堂『あつまれどうぶつの森』、Epic Games, Fortniteなど
コロナ禍の状況下で広まったプラットフォームを利用した表現。
リモート演劇(劇団ノーミーツ、劇団テレワークなどの公演)
いつもなら脚本に続いて語りたくなるのが構成、演出、役者演技ですが、その前に検証したくなったのは、この公演は生ライブ配信だったけれど、収録編集配信だった場合と、どこがどう違っていたのだろう? ということ。確かに生ライブではありました。〔…〕ですが冷静に判断すると、物語内容自体は収録でも済ますことができる範囲のものでした。では収録でやったら同じ反響があったのか。答えは否。結論から言うと、本公演の場合「生ライブ」であることが重要だったと思われます。
PCやスマホの前に時間を合わせて集まった観客たちは、生であることで背筋を伸ばすような緊張感を覚え(それが普段劇場で見る生演劇における緊張とも異質な感じを覚えました)、次に物語が進行するにつれ、どこか頭の片隅でガンバレ‼ 失敗するなよ!! という応援モードにスイッチが切り替わったようでした。整理すると「1. いつもと違う不思議な緊張感から来る物語への没入感」「2. 登場人物、または演じている役者への温かい応援モード」、このふたつの演出は「生ライブ」でないと成立しません。
コロナ禍の状況下で標準化したフォーマットを利用した表現。
lyrical schoolのMV
宮本:たとえば、ガールズラップユニットのlyrical schoolがYouTubeに投稿した「REMOTE FREE LIVE vol.1」では、各メンバーがスマートフォンで個別に撮影したパフォーマンスを並べることでリモートライブという形式を提示していました。それが「REMOTE FREE LIVE vol.3」になると、逆転の発想でリモートという枠組みをひっくり返しているんです。
〔…〕ライブが始まった段階では5人が別々の場所でパフォーマンスしているかのように演出しておいて、実は全員が同じ場所にいた事実がすぐに分かってフレームが取っ払われるという仕組みです。リモートライブという形式だからこそ、観客側の情報量をあえて制限するという表現手法が巧みだと感じました。
松永:Zoomのインターフェイスのように、平面空間の中に四角いフレームに囲われた話者の顔が並置されている形式自体は、以前からあったのかもしれませんが、ここまで一般に普及したのは2020年に入ってからじゃないでしょうか。この新しい形式が当たり前のスタンダードとして確立した結果、その当たり前をいかに面白く料理するか、どうひねるか、ということができるようになったということでしょうね。新しいレトリックの苗床ができたというか。
① 新しいモチーフ(内容の素材)
② 新しいテーマ(問題意識)
③ 新しい使い方(受容のあり方・位置づけ)
④ 新しいプラットフォーム(媒体)
⑤ 新しいフォーマット(形式)
これら(モチーフ・テーマ・受容のあり方・媒体・形式)はいずれも芸術学関連で作品の特徴を記述する際の観点としてしばしば持ち出されるもの。
現実の状況が変われば、表現を作る際に利用可能な媒体や形式やモチーフも、表現の動機となる問題意識も、表現を受容するニーズも変わりうる。
これはコロナ禍にかぎらず一般に言えることだろう。
具体例の紹介
一般化
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レベル・経験値
HP/MP
バグ
チート
フラグ 🐫
カンスト
ガチャ 🐫
リセマラ
裏技
初見殺し
etc.
彼氏ができない原因を「出会いがない」と嘆いている女性は多いですが、果たして本当にそうなのでしょうか? 出会いがないのではなく、自分自身が恋愛に発展する“恋愛フラグ”を無意識のうちに折りまくっていることが真の原因かもしれません。
そこで今回は、恋愛フラグをことごとく折ってしまう女性の特徴を、心理カウンセラーの資格を持つ筆者がご紹介します。〔…〕
まず、恋愛フラグを折る人の特徴として挙げられることは、とにかく鈍感ということです。こういったタイプの女性は、男性から「今度、このレストラン一緒に行かない?」と誘われても、「いいね!じゃあ〇〇たちも誘ってみんなで行こうよ!」といったように、せっかく恋愛フラグが立ちそうなイベントを提案されても、無意識のうちに折ってしまいます。
ここまで鈍感な人も少ないですが、さり気ない男性からのサインを見逃してしまい、恋人候補を潰してしまう人は少なくなりません。鈍感な女性はもう少し「ひょっとして狙われてる?」と自意識過剰になると、恋愛フラグを折ることは無くなっていくでしょう。
フラグ(英:Flag)とは旗の意味。また目印や象徴の意味として使われている。
そこから転じて、コンピュータ用語で、特定の動作を起こさせるための条件に付けられた名称。条件が成立していれば「フラグ(旗)が立つ」という。旗を立てる事を指定した条件が成立した事に見立てたことに由来する。〔…〕
そこからさらに転じて、主にエロゲなどのゲームのストーリー展開に「~フラグ」と発言される。コンピューター用語のフラグをゲームのプログラムに当てはめて条件が成立した時に使われる。〔…〕
そこからさらにさらに転じて、2ちゃんねるなどネットでは『そうなるであろう、そうなる条件が成立したようだ』と物語中の伏線を感じたときに「○○フラグが立った」などといわれる。〔…〕
そこからさらにさらにさらに転じて、『お約束』『お決まりのパターン』『使い古されたストーリー展開』として使われるようになる。この場合が本当に条件が成立したかは関係なく、マンガやゲームでの定石である流れ・ドラマや映画でのクローズアップされるシーンやセリフ・スポーツ観戦中での流れから察する空気など広く使われる。
「フラグ」の用法の拡大
【コンピュータ用語】
条件判定をするために使われる二値的なデータ領域。
【ビデオゲーム用語】
アドベンチャーゲームやRPGなどで、プレイ上の条件分岐を左右する変数(またはその変数を変えるイベント)。
【フィクション用語】
フィクション作品においてストーリーの先行きを暗示する定型表現。「死亡フラグ」「生存フラグ」など。
【現実記述用語】
何かが起こる可能性。「恋愛フラグを折る」など。
※ 「フラグ」の用法の歴史的変遷については、lastline(2015)、カトゆー(2015)に詳しい。
ビデオゲーム用語の時点ですでに本来の意味から外れているが、「フラグ」という語が一般に広まったのは、ビデオゲーム用語(条件分岐の変数)としての用法以降だと思われる。
その後、「死亡フラグ」に代表されるフィクション用語としての用法が広まった。
ビデオゲーム用語の「フラグ」には、〈ビデオゲームのプログラムにはプレイヤーには隠されたスイッチがあって、それを切り替えることで今後の成り行きが変わる〉という含みがある。
この〈未来を左右する隠された要素〉という意味成分は、フィクション用語にも現実記述用語にも引き継がれている。
「親ガチャ」という言葉をご存知だろうか? 若者たちがネット上のスラングとして使い始めた言葉だ。「ガチャ」とは若者にとって身近なソーシャルゲームの用語のことであり、一定額の課金によってランダムでアイテムなどを手に入れることができるシステムを指す。「ガチャ」は運次第である。
「親ガチャ」とはつまり、どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまうという意味で使用されている。
〔…〕地上波の情報番組「スッキリ」(日本テレビ系)〔…〕で取り上げられたことで反響を呼び、親ガチャをめぐる議論が活性化した。
その後、「親ガチャという言葉で自分の境遇を親のせいにするのはよくない」といった自己責任論的な議論や、「経済的格差や虐待などの問題が背景にある」という社会的背景に言及する議論などが寄せられている。
私は、この問題は単純に「不謹慎」や「冗談」では片づけることはできないと思う。若者たちの人生が、「親」の存在におおきく左右してされてしまうということが、以前にもまして「リアリティー」をもっているからだ。
「ガチャ」の由来
【玩具用語】
1970年代後半くらいから、バンダイ製品をはじめとしたカプセルトイとその自販機が、一般に「ガチャポン」「ガチャガチャ」などと呼ばれる(バンダイの商標「ガシャポン」が由来という説もあるが、どちらが先かは不明)。
【ビデオゲーム用語】
2000年代にMMORPGやソーシャルゲームにおけるランダム抽選式のアイテム獲得システム(しばしば課金を伴う)を「ガチャ」と呼ぶ用法が成立する。2012年のコンプガチャ違法問題で有名に。
【現実理解用語】
「親ガチャ」など。比較的最近に登場した用法か。
「フラグ」と同様に、意味成分の重要な部分は引き継がれている(比喩一般に言えることだが)。
「ガチャ」のケースでは、〈偶然によって左右され、かつその内容に価値の差がある〉という成分が維持されている。
「親ガチャ」にもそのニュアンスが明確にあり、まさにその点(親を価値づけの対象にしているという点)で反感とそれに対する擁護を引き起こしているのだと思われる。
以上から言えること
わたしたちは、ビデオゲームを理解するための用語を、現実を理解するために自然に流用している(非常に頻繁かつ広範に)。
言い換えれば、ビデオゲームは、現実に対するわたしたちの見かたを少なからず左右している。
一般化
もちろんこれはビデオゲーム用語にかぎった話ではないはずだ。
他の分野の芸術表現を理解するための用語の多くも、同じように現実の理解に流用されているだろう。
ありえる疑問
ただの比喩ではないのか?
応答
まさに比喩が現実理解の組み換えや構築や活性化として機能することがしばしばある。ビデオゲーム用語を比喩として使うケースの少なくとも一部はそのように機能しているだろう。
ネルソン・グッドマンが言うように、芸術表現自体が現実のひとつの見かたを提供するもの(もっと言えば、それぞれの「世界」を作り出すもの)である。
それについて記述する用語も、当然それを反映している(少なくとも当の芸術表現を受け取った人々の見かたのあらわれである)。
※ 比喩や芸術表現を科学理論と同等の一種の世界の構築と見なすグッドマンの考えと理論については、グッドマン(2008; 2017)を参照。
このオスカー・ワイルドに帰される有名な格言は、古典的な芸術観(模倣説)に対するアンチテーゼとして提示されたものだが、ポイントはここで問題にしていることと同じ方向である。
芸術表現は、現実を描こうとする方向もたしかにあるが、同時に現実についての理解を変えるもの(グッドマン風に言えば、現実自体を変えるもの)でもある。
芸術が人生を模倣するのではない。
人生が芸術を模倣するのだ。
※ 有名な格言ではあるが、ワイルドの実際の発言かどうかははっきりしない。余談だが、この考えがビデオゲーム文化の現状に対する批判としてぴったり当てはまることを松永(2019)で少し書いた。
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現代日本のポピュラーカルチャーは、(a)についても(b)についても豊かな事例の宝庫である(他の地域の文化についてもある程度同じことは言えるだろうが)。
「現代日本文化の研究」というと(オタク文化であれkawaii文化であれ)、コンテンツ単体の特徴に注目されがちだが、(a)や(b)のように表現と現実の関係やそれに関わる用語に注目することで見えてくるものもある。
希望としては、そういう視点での研究がもうちょっと増えてほしい。
おわり
文献
カトゆー(2015)「死亡フラグの歴史(前編)」戯れ言、https://katoyuu.hateblo.jp/entry/20150608/deathflag
河合律子(2020a)「ソーシャルディスタンスが変えた創作のスタンダード:宮本道人×松永伸司が語り合う(前編)」リアルサウンドテック、https://realsound.jp/tech/2020/09/post-622864.html
河合律子(2020b)「ディスタンスパンクが生み出す空間移動のノスタルジー:宮本道人氏×松永伸司氏インタビュー(後編)」リアルサウンドテック、https://realsound.jp/tech/2020/10/post-629699.html
グッドマン、ネルソン(2017)『芸術の言語』戸澤義夫・松永伸司訳、慶應義塾大学出版会
グッドマン、ネルソン(2008)『世界制作の方法』菅野盾樹訳、筑摩書房
松永伸司(2019)「動詞とパターン:ゲームとシミュレーションの関係をめぐって 」『エクリヲ』11号、221–236頁
宮本道人(2020)「ディスタント・アートの創作論」note、https://www.hayakawabooks.com/n/n32fc89b77543
lastline(2015)「死亡フラグを追いかけて」最終防衛ライン3、https://lastline.hatenablog.com/entry/2015/05/27/042342