メディア文化学/美学美術史学 特殊講義
月曜4限/第2回
松永伸司
2023.10.23
「ダサい」という語の多様な使われ方をひとまず暫定的に整理・分類する。
その作業によって、このコースの全体で取り上げたいタイプの「ダサい」事例がどういうものであるか、またその多様さがどれほどかをある程度明確にする。
1. 整理・分類のねらいと方法
2. 「ダサい」事例の整理と分類
3. リアクションペーパーについて
何のために整理するか
使う事例
方法上の注意点
整理・分類の動機
整理・分類をする動機は大まかに3つある。
①美的判断に関係なさそうな事例を除外したい。
②「ダサい」と言われる物事の種類のバリエーションを確認したい。
③「ダサい」の言い換え可能性のバリエーションを確認したい。
動機① 美的判断に関係なさそうな事例を除外したい
今回のコースでは、「……はダサい」という判断(面倒なので以下「ダサ判断」と呼ぶことにする)を、美的判断の一種として、あるいは少なくとも美的判断が何か重要な仕方で関わる判断として、考えていきたい。
なので、明らかに美的判断に関係ない(少なくとも直接には関係ない)タイプのダサ判断の事例は、ひとまず考察の対象から除外したい。
具体的には、たとえば、ただの倫理的判断(たとえば「社会規範から外れている」とか「道徳的に悪い」とかに言い換え可能なダサ判断)に見えるものは除外したい。
動機② 「ダサい」と言われる物事の種類のバリエーションを確認したい
どんな種類の物事が「ダサい」と言われているのか、そのバリエーション(多様さ)をはじめに軽く確認しておきたい。
具体的には、個々のダサ判断の主語(「xはダサい」における「x」)が指す対象がどんなカテゴリーに属する事柄か(ひとつの物なのか、複数の物の組み合わせなのか、何らかの行為なのか、能力なのか、態度なのか、etc.)を確認し、ダサ判断をいくつかのグループに区分けできるようにしたい。
動機③ 「ダサい」の言い換え可能性のバリエーションを確認したい
「……はダサい」という判断の内実やなぜそう言えるのかの理由を考えていくために、「ダサい」という語がどれだけ別の語で言い換えられるものなのかを確認しておきたい。
具体的には、個々のダサ判断における「ダサい」の部分を、日常的に使われる別の言葉で言い換えられないか検討し、言い換え可能な語のバリエーションを洗い出したい。
整理・分類の材料となる事例(データ)
ひとまず使うのは大まかに2つ:
①前回の授業で「ダサい」ものの例としてSlidoに挙げられた事例。
②これまで個人的にストックしてきた事例の一部。
事例のピックアップの恣意性?
事例のピックアップが恣意的ではないか(偏りがあるのではないか)という想定される疑問に応えておく。
ここで取り上げる「事例」は統計上のサンプルという扱いではなく、網羅性も代表性も偏りのなさもとくに意図していない。
というのも「ダサ判断とは一般にこれこれである(これこれの傾向が強い)」みたいな話をしたいわけではないから。
単純に議論の前提として、ダサ判断の多様さとパターンを軽く確認しておきたいだけである。
また仮に今回の分類でカバーできない事例が新たに出てくることがあっても、整理・分類の枠組みのほうを修正すれば済む話である。
整理・分類の暫定性について
今日の授業で示すのは、あくまでこれから考えを進めていくためのスタート地点としての暫定的な整理・分類でしかなく、何か決定版のようなものではない。
コースを通じて考えていった結果、今日の整理・分類は最終的に大きく変わるかもしれないし、あまり変わらないかもしれない。
地図の比喩:
ある地域の十全な地図を作るためには、その地域を踏破していく必要があるが、そもそもその地域に踏み込むために最低限の仮の地図があったほうがよい(それがどこまで正確で詳細かはともかく)。
美的判断に関係あるかどうかをどう判別するのか
あるダサ判断が「明らかに美的判断に関係ない」タイプのダサ判断かどうかをどのように判別できるのか、という疑問があるかもしれない。
美的判断は、ごく大雑把に言えば、推論によらずにある種の独特なセンス(としか言いようのなさそうな能力)の行使によって直感的になされる判断のこと。
美的判断の詳しい特徴づけについては、次回・次々回あたりの授業で取り上げるが、当然ながら、明確な見分けの基準などというものはない。
明確な基準はないものの、あるダサ判断が美的判断に関係するか否かの判別は、整理者(=松永)がある程度問題なくできるという前提で話を進める。
余談:研究の手続きがその手の属人的な判別能力に依存しているのは気持ち悪く思えるかもしれないが、哲学はそもそもそういう論者の能力依存の側面を不可避に備えた営みだと思われる。
言い換え可能な語をどのように特定するのか
これも美的判断に関係するかどうかの判別と同じく、整理者(=松永)が事例ごとに「ダサい」の言い換え可能な語を特定する能力を持っているという前提で話を進める。
哲学の方法のひとつとしての概念分析は、なんであれそういう前提(書き手および読み手が当の言葉の用法についての「直観」を十分に共有しているという前提)のもとで進められるわけなので、とくに特異なアプローチというわけではない。
余談:哲学的な概念分析ではなく、グラウンデッドセオリーアプローチなどの別の方法を採用する選択肢もあるだろうが、そういうのはやりたい(かつちゃんとできる)人がやればよい。
前回授業の事例の整理と分類
ストック事例の確認
まとめ
前回の授業で集まった事例
前回の授業では、各人が思う「ダサい」ものの具体例をSlidoで挙げてもらった(URLはScrapboxを参照)。
それらの事例を、以下の観点で整理・分類した。
①美的判断に関係してそうかどうか。
②「ダサい」とされる物事(ダサ判断の主語の指示対象)の種類は何か。
③「ダサい」をどんな別の言葉に言い換えられるか。
結果① 美的判断に明らかに関係なさそうなタイプの「ダサい」もの
少なくとも以下の2つのグループがある。
単純に倫理的にダメな行為や態度が「ダサい」とされるケース
例:集団で一人を攻撃していること、人を傷つける笑い、etc.
単純に認識論的にダメな行為や態度が「ダサい」とされるケース
例:的外れな批判、さも絶対的に正しいかのように言説をのたまう人、etc.
倫理的な瑕疵や認識的な瑕疵が、主に美的述語として使われるはずの「ダサい」という語で示されることが少なからずあるのは興味深い。倫理的/認識的な瑕疵が美的な瑕疵に転じることがしばしばあるということかもしれない。
結果② 「ダサい」ものの種類
「ダサい」とされる対象は、大まかに以下のカテゴリーに区分できると思われる。
物:単純に物そのものが「ダサい」ケース
人の行為:誰かがする行為が「ダサい」ケース
人の態度(選好を含む):誰かがとる態度が「ダサい」ケース
人の能力:誰かが持つ能力が「ダサい」ケース
ひとつのダサ判断が複数のカテゴリーの対象についての判断になっていると考えたほうがよいケースもけっこうある。
たとえば、物について「ダサい」と言いつつ、その物を好む誰かの態度についても同時に「ダサい」と言っているように見えるケースがある。
結果③ 「ダサい」の言い換え可能性
ダサ判断の「ダサい」の部分を他の日常語で言い換えられるかどうか、言い換えられるとすればどういう語になるかを、個々の事例ごとに検討した。少なくとも次のページに挙げる語が「ダサい」の言い換え語の候補としてあると思われる。
ただ、実際に作業してみて思ったことだが、それらが「ダサい」を言い換えた言葉なのか、あるいは「ダサい」という判断の理由を示す言葉なのかを区別するのがかなり困難だった。
なので、"interchangeability"の列には、「ダサい」の理由を示すものも部分的に含まれていると思ったほうがよい。
また、他の日常語に言い換えるのが難しそうな事例もいくらかあった。
ちなみに「かっこわるい」は多くの事例の言い換えとして成り立ちそうだったので、今回のリストからは省いた。また、「寒い」とか「痛い」に言い換え可能な事例もおそらくあるはず。
続き
「ダサい」の言い換え語の候補(とくに相互排他的なリストではない):
見栄えが悪い
趣味が悪い(物)
趣味が悪い(選好)
品がない
どじ・間抜けである
徳が低い
せこい
イキっている
余裕がない
ダサ要素がある
ちょっと休み
ストック事例の整理・分類?
先に示した整理・分類の枠組みは、これらのストック事例もある程度同じようにカバーできるように思われる。
いずれにせよ、これらのストック事例は、このコースで考えていきたいダサ判断の典型的な事例の一部なので、今後もちょこちょこ登場するかもしれない。
余談:マンガなどのフィクション上でのダサ判断の事例も多少ストックしているのだが、今回のコースで取り上げる予定はいまのところない。仮にそれらの事例を追加しても、議論の内容は大きくは変わらないと思われる。
ひとまずの整理・分類のまとめ
美的判断に関係なさそうなダサ判断は、ひとまず考察の対象から外したい。
具体的には、たんなる倫理的な瑕疵や認識的な瑕疵を「ダサい」と呼ぶようなケースはいったん除外したい。
「ダサい」とされるものの種類には、それなりの多様さがある。
具体的には、物、行為、態度、能力など。
ひとつのダサ判断の中に、こうした複数の種類の対象についての判断が同時に含まれていることもある。
「ダサい」を別の言葉で言い換えられそうなケースはけっこうある。
具体的には、見栄えが悪い、趣味が悪い、品がない、徳が低い、イキっている、など。
一方で、他の言葉に言い換えるのが難しいケースもある。
次回以降考えていきたいこと
コース全体としては、ダサ判断の理由(つまり、なぜそれが「ダサい」と言えるのか)にどんな多様さがあるのか、あるいはさまざまなダサ判断に共通するような何かコアとなるダサの理由があるのか、といったことを考えたい。
そのための前提として、次回と次々回は、美的判断一般の特徴とそれをめぐるいくつかの論点を紹介する予定。
なので、おそらくしばらくは「ダサい」から離れて「美学入門」っぽい内容になる。
リアクションペーパーの位置づけ
成績の配点:
平常点 50%
期末レポート 50%
平常点は、毎回の授業後に提出していただくリアクションペーパーの提出実績とその内容の質のみによってカウントします。
提出方法はGoogleフォームを使います。
具体的な提出方法や評価の観点についての詳細は、Scrapbox内の「リアクションペーパーについて」のページを参照してください(URLはこのスライドでは共有しません)。
おわり