メディア文化学/美学美術史学 特殊講義
月曜4限/第4回
松永伸司
2023.11.13
前回のヒュームの考え方をざっくりおさらいする。
美的判断の特徴づけに関して影響力の大きいカントの考え方をごく簡単に確認する。
現代の美学ではどんな前提のもとで議論されているか、そこにはどんな論点があるかをごく簡単に確認する。
1. 前回のリアクションペーパーのQ&A
2. ヒュームのおさらい+α
3. カント美学のコア
4. 現代美学のあれこれ
前回のリアクションペーパー
リアクションペーパーのQ&Aは、基本的にScrapbox上ですることにします。各回ごとにQ&Aのページを作ります。
すごく重要なコメントの場合のみスライド上で共有します。
ヒュームの議論のおさらい
補足
デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711–1776)
ヒュームの議論の前提と問題意識
前提(観測事実)
美的判断は、よい感じがするか否かという個々人の感じ方(feeling)にもとづいて行われる(推論にもとづいて行われる判断ではない)。
美的判断には、より「正しい」判断とより「正しくない」判断の区別がある(と人々は考えている)。
人々は、「趣味のよしあし」つまり美的判断を適切に行う能力の優劣について語っている。
問題意識
感じベースで判断されるということと、正誤が言えるということの相性が非常に悪い(前者は主観主義に都合のいい事実、後者は客観主義に都合のいい事実)。
両者は両立しうるのか。両立するとすれば、どのようにしてか。
ヒュームの答え
「よき趣味」を備えた人々(「真の批評家」たち)が合意するような美的判断が正しい美的判断であると考えればよい。
ここで「よき趣味を備える」とは、以下の条件を満たしたかたちで美的判断を行う能力を持っていることである。
(i) 物事を繊細に見分けられる
(ii) (美的判断の)訓練を十分に重ねている
(iii) (作品間の)適切な比較ができる
(iv) 偏見から自由である(個人的な思い入れや伝聞などによって判断が左右されない)
(v) (作品の全体的な意図を把握したりするための)まともな知的能力を備えている
ヒュームとカント
ヒュームの議論の前提や問題意識は、カントによる美的判断(趣味判断)の特徴づけについての議論の中でも、ほぼそのまま受け継がれている。ひいてはそれは、カント以降の美学(現代の美学も含めた美学という分野の全体)の前提や問題意識にも多かれ少なかれつながっている。
ただし、ヒュームの議論が「よき趣味」の条件や美的な合意の形成といった比較的世俗的なレベルの話をしているのに対して、カントの議論は、美的判断という独特の営みの中で人間の諸能力がどのように働いているのかを(そしてその可能性と限界を)見定めることに焦点がある(さらに、その議論はカントの批判哲学の巨大で複雑な体系を前提としている)。この点で、ヒュームとカントのノリはだいぶ違う。
また、ヒュームが芸術作品に対する美的判断を想定しているのに対して、カントが「純粋な」美的判断として想定しているのは自然に対する美的判断である。
ヒュームと現代美学
「よき趣味」を備える「真の批評家」というヒュームのアイデアは、現代の美学では「理想的批評家(ideal critic)」や「理想的鑑賞者(ideal appreciator)」という用語のもとで論じられている。
典型的には、ある美的判断をいかにして正当化できるのか(もしできるとすれば)という古典的な問題に対して、判断者の能力や傾向性に訴える戦略をとる場合に、この概念が持ち出される。
「理想的鑑賞者」をめぐる議論はまた、プロの批評家でもなんでもないわたしたちが美的判断の実践(「作品のよしあし」や「趣味のよしあし」を一生懸命言いたがる変な実践)といかに付き合っていくべきなのか、わたしたちは美的な事柄を気にしながら生きるべきなのか、といった生き方の話につながることもある。
余談:ネハマスの悪夢
理想的批評家説:
正しい美的判断は、適切な能力を十分に備えた批評家の集団が合意するような美的判断である。
アレクサンダー・ネハマスによる疑問:
われわれはみな、そのような「正しい」美的判断をするべく理想的批評家になろうと努力しないといけないのか?
適切な能力を備えた批評家なら美的判断が一致するというのは、誰もが「理想的」批評家になれば、みな同じ美的判断になるということなのか? 仮にそうだとして、そうなることによってもたらされる美的に画一的な世界は「理想的」でもなんでもなく、ただの悪夢だろう。
美的判断にとって個性・多様性は大事!
発展的な勉強用の文献・記事(美的な生き方関連)
森「われわれ凡人は批評文をどのように読むべきか:理想的観賞者と美的価値をめぐる近年の論争から考える」『人間生活文化研究』31号、2021年https://doi.org/10.9748/hcs.2021.365
銭「美的に画一的な世界」obakeweb、2021年https://obakeweb.hatenablog.com/entry/FA
ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』森訳、勁草書房、2023年
おすすめの邦訳と参考文献
10分でわかるカント美学のコア
注意点
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724–1804)
カント美学のテキスト
一般に「カントの美学」と言う場合、基本的には『判断力批判』の第1部の内容が想定されていると考えてよい(細かいことを言えば、それ以外の著作にも美学関連の話題は散見されるが)。
『判断力批判』
認識論と形而上学の問題を主に扱う『純粋理性批判』、倫理学の問題を主に扱う『実践理性批判』に続くカントの代表的著作で、「第三批判」とも呼ばれる。他の2つに比べてややマイナーかもしれない。
美学の問題(美の判断、崇高の判断、自然美と芸術美、天才と芸術制作、etc.)が扱われるのは前半部分のみで、後半部分では目的論(目的を持つものとして自然や世界を見るということ)の問題が扱われている。
今回は、第1部のうちの美の判断(趣味判断)の話の部分だけを取り上げる。
おすすめの邦訳
他のカントの著作と同様に『判断力批判』の邦訳も大量にあるが、正確さや理解しやすさの点でかなりピンキリである。
以下のどちらかをおすすめする。
『判断力批判』熊野訳、作品社、2015年
金田「カント『判断力批判』翻訳の試み:1節から22節まで」『芸叢』13号、1996年
これは部分訳で、23節以降や序論は含まれていないのが残念。
岩波文庫の篠田訳は、初学者にとっては害があるレベルのものなので、読むのはまったくおすすめしない。
おすすめの勉強用文献
『判断力批判』を読もうとしても、カント哲学の基本概念とフレームワークを知っていないと、ほとんど意味がわからないかもしれない。最低限『純粋理性批判』についての入門的知識がないとしんどいと思われる(『カント事典』をその都度引きながらとかでもいいかもしれないが)。『純粋理性批判』の解説本はいろいろあるので、適当にいくつか読んでみるといいでしょう。
カント美学の勉強用文献としては、以下をおすすめしておく。
Ginsborg, "Kant’s Aesthetics and Teleology," Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2005/2022. https://plato.stanford.edu/entries/kant-aesthetics/.
近年の英語圏の研究の諸論点がまとめてあってわかりやすい。
小田部『美学』東京大学出版会、2020年
前提① 判断とは?
カントが使う「判断」は、論理学(伝統的論理学)の用語としてのそれで、主語概念と述語概念の特定の関係づけのことを指す。
判断の例:
すべての猫は哺乳類である(主語:猫、述語:哺乳類)。
ある猫は京都大学に住んでいる(主語:猫、述語:京都大学に住むもの)。
これは黒い(主語:「これ」の指示対象、述語:黒いもの)。
ようするに命題のこと。
※ ちなみに、判断(命題)を構成する要素が概念(名辞)、複数の判断を関係づけること(ある判断から別の判断を引き出すこと)が推論である。
前提② 美の判断の例
カントが言う「美の判断(=趣味判断)」は、大雑把に言えば、述語が「美しい」であるような判断のことである。たとえば次のようなもの。
この花は美しい。
あの建物は美しい。
富士山は美しい。
カントによると、美の判断はつねに単称判断である。つまり、美の判断の主語はつねに、種類(グループ)ではなく個体である。なので「このバラは美しい」は美の判断だが、「バラは総じて美しい」は一見美の判断に見えるものの正確には美の判断ではないという。
※ ちなみに、カントは「美的判断」に相当する語(ästhetische Urteile)を美の判断だけでなく崇高の判断や場合によっては快適の判断を含む広い意味で使っているので、ちょっとややこしい。いずれにせよ、カントによる美の判断の特徴づけは、その後の美学の中での美的判断(こちらも美の判断を含むより広い概念だが、カントが言う「美的判断」とはカバー範囲が異なる)の特徴づけにつながっているという理解で問題ない。
感じにもとづく判断
通常の経験的な認識判断(たとえば色の判断「この皿は青い」など)は、感覚器官を通した外界の感覚・知覚にもとづいてなされる。
一方で、それとは異なる種類の判断のあり方として、いい感じがするかしないか(カントの用語だと「快不快の感情」)にもとづいて判断がなされる場合がある。美の判断は、この種類の判断に属する。
感じにもとづく判断には、美の判断も含めて次の3つの種類がある。
美の判断:「Sは美しい」など。
快適の判断:「Sは心地よい」「Sが好き」など。感覚的に直接いい気持ちになるケースが想定されている。
善・有用性の判断:「Sは善である」「Sは~~にとって役立つ」など。
※ 道徳的な善の判断と有用性の判断は一応区別されているが、その違いはここでは論点にはなっておらず、大まかに同じグループに入れられている)。
感じにもとづく判断3種の共通点と相違点①
まず、当の〈いい感じ〉が概念ベースかどうかという点での対比がある。これは判断の根拠が一般化できるかどうかという話でもある。
善・有用性の判断では、概念的な関係の理解にもとづいて〈いい感じ〉がもたらされる。
たとえば、「このナイフは肉を切るのにちょうどよい(役に立つ)」という判断の場合、「肉を切ること」に関係する何らかの概念(たとえば「切れ味がよい」「取り回しがしやすい」etc.)を介して〈いい感じ〉が感じられ、それにもとづいてナイフの有用性が判断されている。
「募金する行為は善い」のような善の判断の場合も、当の募金行為が何らかのさらなる道徳的に善な事柄に概念的に(つまり一般的に)つながっているからこそ〈いい感じ〉がもたらされる。
続き
一方、快適の判断や美の判断における〈いい感じ〉は、概念を介してもたらされているわけではない。
あるものについて「好き」とか「美しい」とか言う場合、それが〈いい感じ〉である根拠は(少なくとも一般化したかたちでは)とくに言えず、とにかく〈いい感じ〉なのである。
※ 余談:美の規則化や学問化は不可能というよく知られた主張もここから導かれる。以下『判断力批判』44節の冒頭から引用。「美しいものの学といったものはない。かえって批判が存在するにすぎない。〔…〕なぜなら〔…〕[もしそうしたものがあるとすれば]、その学のうちで学問的なしかたで、すなわち証明根拠によって「或るものが美しいと見なされるかどうか」が決定されなければならないだろうからである。美をめぐる判断は[その場合には]、したがって学に所属するものであるとすると、それはいかなる趣味判断でもないことになるだろう。」
感じにもとづく判断3種の共通点と相違点②
次に、他人に同意を要求するかどうか(カントの用語だと「普遍妥当性の要求」)という点での対比がある。ようするに、判断に規範性があるかどうかという話である。
善・有用性の判断では、基本的にその判断への同意を他人に(明示的にであれ暗黙にであれ)求めている。「べき」のニュアンスを抜きにして道徳的判断をすることはできない。
一方、快適の判断は、他人に同意を要求するものではない。「気持ちいい/気持ちよくない」の判断や「好き嫌い」の判断をする場合に、その判断に他人も同調すべきだという規範性が含まれていることはない(共感してほしいくらいの気持ちはあるかもしれないが、それは規範性の問題ではない)。
続き
美の判断は、この点ではどちらに近いか。
カントの考えでは、美の判断には、善・有用性の判断と同じく、他人への同意要求=規範性がつねに含まれている。
この点で、美の判断は、たんなる快適の判断(個人的な好き嫌いなど)とは異なる。
感じにもとづく判断3種の共通点と相違点③
さらに、判断が欲求に(ひいては行為に)つながるかどうか(カントの用語では「関心」の有無)という点での対比もある。これは(とりわけ日常生活上の)利害関心やニーズに関わる事柄であるか否かという話でもある。
カントの考えでは、善・有用性の判断と快適の判断は、ともに欲求・利害関心に関わるが、美の判断は関わらない。この点で、美の判断は、他の感じにもとづく判断からは区別される。
これは、いわゆる無関心性(disinterestedness)の美学として知られるもので、批判も多く悪名高い主張だが、近代美学にとって(ひいては近代の芸術観にとって)かなり影響の大きい考え方である。
感じベース | 概念ベース | 他人への 同意要求 |
欲求・ 利害関心 |
|
---|---|---|---|---|
美の判断 | Yes | No | Yes | No |
快適の判断 | Yes | No | No | Yes |
善・有用性 | Yes | Yes | Yes | Yes |
通常の認識判断 | No | ? | Yes? | ? |
|
||||
---|---|---|---|---|
美の判断 | Yes | No | Yes | No |
Yes | No | |||
Yes | Yes | |||
Yes? |
適当なまとめ表
他の論点
今回の話は、あくまでカント美学の中核的なアイデアの部分を(かなり大雑把かつ不正確に)示したものにすぎない。『判断力批判』の第1部には、他にも美学の重要な論点が数多くある。
たとえば、崇高、天才、自然美と芸術美、美的理念、etc.
また、目的論を扱う第2部との関係や、より広くカント哲学の体系の中での『判断力批判』の位置づけも気にしたほうがよい。いずれにせよ、大哲学者の思想は、本来単純化できるものではないということを十分意識しておく必要がある。
美の判断のメカニズム
かなり入り組んだ話であり、かつ前提をいろいろと説明する必要があるので、今回は完全にカットしたが、美の判断のメカニズム(美の判断において諸能力がどのような働きをするのか)についてのカントの説は、『判断力批判』第1部の中でもとりわけ独創的で面白い部分である。
有名な「構想力と悟性の自由なたわむれ」や「目的なき合目的性」といった考え方が登場する箇所にあたる。
整合的に解釈するのが困難な部分もあり(具体的には、判断と感情のどちらが先行するのかという論点についてのカントの主張がぶれているように見える)、入門の段階でいきなり踏み込むのはまったくおすすめしないが、現在でも解釈をめぐる論争が続いているらしく、古典的なテキストを深く読むことの難しさと楽しさを実感できるところでもある。
現代美学の前提と論点
参考文献
現代の美学?
ここで言う「現代の美学」は、おおむね英語圏を中心とした分析哲学系統の美学(いわゆる分析美学)の中の、とくに美的判断や美的性質や美的価値をめぐる諸論点を取り上げて論じる特定の文脈を想定している。
この狭義の美学は、現在では芸術の哲学(philosophy of art)とは区別されることが多い(一部重なる論点もあるが)。
現代の美学もまた、ヒュームやカントが示したような近代美学の前提や論点の多くを受け継ぎつつ、議論のアップデートを重ねている。もちろん、新たに追加された論点もある。
現代美学の前提と論点
美的判断の一般的な特徴として挙げられることの多い前提と、それらに関わる論点を以下に示す。一部は、ヒュームやカントの議論の中にすでに見られるものである。
規範性:
美的判断には正誤が言える(少なくとも人々はそのような物言いをしている)。実際、誰かの美的判断にまるで同意できない場合に、その判断が「間違っている」という仕方で論争をふっかけるという事態は普通によくある。
カントも指摘しているように、これは美的判断をたんなる好き嫌いから区別するもっとも顕著な特徴だとされる。
続き
判断理由の一般化できなさ:
ある美的判断の理由・根拠を一般化したかたちで示すことは(少なくとも十全には)できないということがよく言われる。
この特徴は、いろいろな言い方で論じられてきた。たとえば、「個別性(particularity)」や「非条件支配的(not condition-governed)」などと言われることがある。ようするに〈これこれの条件を満たせば美的にこれこれである〉と言えるような一般的な法則はありえないということである。
美的性質を言葉にすることの難しさ、いわゆる「いわく言い難さ(je-ne-sais-quoi)」もこれに関わる論点だろう。美的性質の事例はなんでもいいが、たとえば〈抜け感〉や〈地雷系〉という質を、それを知らない人に言葉で説明することが原理的に難しい(仮に説明者がその質を十分に見分ける能力を持っていたとしても)ことを想像してみればよい。
続き
価値づけの側面と性質帰属の側面の区別:
美的判断とひとくちに言っても、〈当のアイテムは、美的によい〉と述べる評価的側面と、〈当のアイテムは、しかじかの美的性質を持っている〉と述べる記述的側面が別々にあると考えたほうがよい。
たとえば、「このアメニティグッズのデザインは野暮ったい」という美的判断は、純粋に価値中立的な意味での〈野暮ったさ〉という性質をそのアイテムに帰属しつつ、同時にそのアイテムが〈美的にいくらか劣る〉という価値づけをしている。
「野暮ったい」は両方の側面をつねに含む使われ方をする美的述語だが、評価的側面と記述的側面の配分は個々の美的述語ごとに異なる。
これはヒュームやカントには見られなかった考え方だが、現代の美学ではスタンダードな考え方になっている。
続き
知覚との類比:
美的判断を行うために必要な経験を、通常の知覚(たとえば色知覚)との類比をもとに説明しようとする発想もよくある。
たとえば、色判断(「このものはしかじかの色を持つ」)の正当化は、ふつう知覚的証明によってなされると言われる。知覚的証明とは、話し手の知覚的経験と同じ経験を聞き手もすることで同意に至るというやり方によってのみ、判断の正当化がなされるということである。
美的判断の正当化も、それと同じように知覚的証明によってなされるという考え方がある。
勉強用の文献:源河「美的性質と知覚的証明」
続き
直面原理:
正当化可能な美的判断をするには、判断者が判断の対象を直接に経験する必要があるという考えも、広く認められている。この考えは、現代の美学では「直面原理(acquaintance principle)」と呼ばれる。
これはようするに、たんなる伝聞(誰かから聞くこと)によって美的判断を正当化することはできないという話だが、直面原理は民間美学レベルでも常識的な前提だと思われる。
例:「観ないで批判するのは論外として」(『100日間生きたワニ』の感想)
一方で、対象を直接経験していなくとも美的判断の正当化がなされうるケースがいろいろ存在するという議論もある。その種のやり方での正当化は、「美的証言(aesthetic testimony)」と呼ばれる。
続き
趣味の標準化できなさ:
色知覚の能力は比較的標準化しやすい、つまり「正常/異常」という言い方が一応はできる(その言い方が政治的に正しいかどうかはともかく)。
一方で、美的知覚の能力、つまり趣味は、標準化できるようなものではない。また、多数派が「正常」になるわけでもない(「趣味のよい人」として評価される人はむしろ少数派なのが普通だろう)。
この点で、美的判断と色判断(やその他の知覚的判断)は、互いに異なる規範性を持つと言える。
美的なもの(美的判断、美的性質、etc.)関係の勉強用文献
入門用の本
源河『「美味しい」とは何か』中央公論新社、2022年
源河『悲しい曲の何が悲しいのか』慶應義塾大学出版会、2019年(2~3章)
ステッカー『分析美学入門』森訳、勁草書房、2013年(3~4章)
古典的な論文
シブリー「美的概念」吉成訳、『分析美学基本論文集』所収、勁草書房、2015
ビアズリー「美的観点」銭訳、『フィルカル』6巻2号、2021年
事典項目
Shelly, "The Concept of the Aesthetic," in Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2009/2022. https://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-concept/.
Peacocke, "Aesthetic Experience," in Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2023. https://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-experience/.
おわり