メディア文化学/美学美術史学 特殊講義
月曜4限/第7回
松永伸司
2023.12.11
ルッキズムに代表されるような、身体の外見的特徴を美的に評価することをめぐる諸問題と諸立場を理解する。
ファッション(装い)に対する美的判断の独特な特徴と、その特徴をめぐる諸問題と諸立場を理解する。
1. 外見を美的に評価すること
2. ファッションの美的判断
ルッキズムとその問題
外見の美的評価はアリかナシか
ルッキズム
人の外見的特徴(とりわけ身体の外見的特徴)を美的に評価することは、良し悪しはともかく、事実として日常的に広く行われている。
そうした評価が、たんなる個々人の美的判断の領分を超えて、評価対象の人の社会的な有利/不利につながることも少なからずある。たとえば、就職活動での有利/不利、成績評価上の有利/不利、人付き合い上の有利/不利など。
そのように個人の外見的特徴をもとにして、その人の社会上の「優劣」をつけたり優遇/冷遇したりする価値観や実践は「ルッキズム(lookism)」と呼ばれ、近年とりわけ問題視されてきている。
※日本語訳は「容姿差別」「見た目にもとづく差別」「外見主義」「外見至上主義」などいろいろあるが、「ルッキズム」のほうが通りがよいと思われるので「ルッキズム」で通す。
ルッキズムに対する批判的動向の典型例
ミスコン・ミスターコン批判
ミスコン批判は、基本的に性差別の観点からの批判もくっついている(場合によってはそちらのほうが主な批判ポイントである)ので少し複雑。
ボディポジティブ運動
ルッキズム問題の所在
小手川「見た目差別の何が問題か?」(三田評論ONLINE、2021年)から引用
「ルッキズムを批判する人は、「どんな場面でも見た目を重視してはいけない」などと主張しているのではなく、「就職活動や入試といった、本来は見た目が評価されるべきではない場面で見た目が評価の要素となり、一部の人が不利益を被ることは機会均等の原則に反する」と主張しているのだ。〔改行〕もちろん、職種によっては、顔立ちや体型がその職業に固有な本質とみなされ、見た目の評価が不当とは言えない場合もある。しかし、そうした職種はモデルなどごく一部に限られ、それ以外では、本来は見た目が評価の対象となるべきではないか、それほど重視されるべきではないにもかかわらず、そうなってしまっていることが問題視されよう。」
「〔さらに加えて〕ルッキズムは、単に雇用機会の均等を損なうだけでなく、性差別や人種差別、階級差別を助長しかねないのだ。」
続き
ルッキズムが性差別(sexism)につながりうるわけ:
「見た目」に対する社会的な要求や評価は、女性に対するもののほうが圧倒的に多い(たとえば化粧・ヒール靴問題)。
ルッキズムが人種差別(racism)につながりうるわけ:
美醜の基準が、特定の人種の身体的傾向に紐づいていることが多い(たとえば「肌が色白であること」「鼻が高いこと」「脚が長いこと」等々にポジティブな価値が置かれる)。
ルッキズムが階級差別(classism)につながりうるわけ:
社会的な要求や評価軸に沿って「見た目をよく」するには、少なからず金銭的・時間的な負担がかかる。結果として、階級間の経済格差が(間接的にではあれ)外見の評価に反映される傾向にある。
※その他、各種の文化資本の有無も、間接的に外見の評価に反映される傾向にあると思われる。たとえば「上品/下品」のような美的述語が人の外見的特徴に適用されるケースを想定するとわかりやすいだろう。前回授業の「直球の階級差別的スノバリー」の問題に近い話でもある。
ルッキズムをめぐる哲学的(倫理学的・美学的)な論点
一般的な論点:
ルッキズムの悪さはこれだけなのか。他にも悪い点はあるのか。
ルッキズムは擁護不可能なのか。擁護可能だとすれば、どういう理屈によってか。
ルッキズムが社会的に悪だとして、「よい外見」のほうを快く感じるわれわれの自然な(あるいは少なくとも自然であるかのように思える)傾向とどう折り合いをつければよいのか。
この授業で取り上げる論点:
ファッション(衣服・化粧・その他による外見の装い)を美的に評価する実践には最初からルッキズムが組み込まれているように思えるが、ファッションとルッキズムの関係をどう考えればよいか。
ファッションに対する美的判断が倫理的に無害になることは可能なのか。
人の外見の「美醜」を判断すること
ファッションの話に入るまえに、人の外見の「美醜(beauty/ugly)」を判断することをめぐる問題についてのサーベイ論文をざっと紹介しておく。
マデリン・マーティン=シーヴァー(Martin-Seaver 2023)は、個人の外見的特徴を美的に評価すること(自分で自分の外見的特徴を評価することも含め)の是非、とくにその手の評価が個人の行為主体性(agency)をしばしば阻害するという問題に関する哲学的立場を、大まかに以下の4つに分けている。
擁護論者(advocates)
社会的懐疑論者(social skeptics)
美的懐疑論(aesthetics-focused skeptics)
修正主義者(revisionists)
なぜ外見の「美醜」の判断は行為主体性を阻害しがちなのか
個々人の身体的特徴は、少なくとも基本的な部分については、生まれつき与えられているものであり、当人が自分で主体的に選択できるものではない。つまり、かなりの部分が「運」で決まる。
もちろん、身体的特徴のすべてがそれだけによって決まるわけではないが(意図的な「努力」で変えられる部分もある)、行為主体性の発揮によって左右できる部分が、自分に帰属されるその他の諸属性(各種の技能、知識、記憶など)に比べて相対的に少ないのは確かだろう。
差別全般に言えることだが、そうした当人にはほぼ選択不可能な個人の属性が社会的に価値づけられるとき、行為主体性の阻害がしばしば生じる。ようするに、自律した行為者(agent)としての自覚や自尊感情が損なわれる。
※ 哲学分野における”agency”のもっとも標準的な定訳は「行為者性」だが、文脈上あまりぴったりな訳ではないので「行為主体性」にしておく。
擁護論①(以下、Martin-Seaver(2003)の内容紹介)
身体の美を内面(魂!)が優れていることの現れとして捉える考え方は、古今東西にある。
実際「美しき賢人(beautiful sage)」のイメージは、さまざまな文化や宗教に見られるし、倫理的な徳の高さとある種の外見的な美しさを強力に結びつける考え方は、かなり普遍的にある。
とはいえ、そうした文脈で重視される「美」には、単純な見栄えの魅力(たとえば単なる性的魅力やナチス党大会のような)などは含まれない。それは、もっと限定された意味での「美」、「よき性格の反映としての美」である。
擁護論者によれば、身体のグラマーさや欠点のなさ(flawlessness)は「キッチュな」美的理想ではあるとしても、尊重するに値するような意味での「美」ではない。
擁護論②
擁護論者の主張:
身体の外見的特徴に対する美的評価は、それが優れた内面の反映という意味での美の評価であるかぎりは、倫理的に害ではないし、行為主体性も阻害しない。
むしろ、徳ある人間を尊重し、そうした人物になろうとすることを後押しするという点で、その逆である。
社会的懐疑論
社会的懐疑論者は先のルッキズム批判とおおよそ同様の主張をしている。
社会的懐疑論者の主張:
人の外見を美的に評価することは、その内実がどんなものであれ、当の社会で通用している「美の諸基準(standards of beauty)」に沿わない外見をしている人にとって、端的に害がある。
加えて、その諸基準によって損をしている人だけでなく、得をしている人にとっても、行為主体性の阻害につながる。
たとえば、自分の外見から得られる社会的な恩恵が「嘘くさい(illusory)」ものに感じられてしまったり、他者からの期待によって(あるいはそうした他者の期待を満たそうと勤しむことによって)自律性が損なわれたりすることがある。
美的懐疑論
社会的懐疑論者が、どんなものであれ外見を美的に評価することを一律に批判するのに対して、美的懐疑論者は、外見に対して「美醜」を言うタイプの美的評価をもっぱら批判する。ようするに、外見的特徴に対して「美醜」以外の美的判断をするなら倫理的に無害になりえるという考え方である。
美的懐疑論者は、いまの社会で支配的な美的理想(=いわゆる美)とは異なるオルタナティブな美的理想を提示したり、その多様性を示すことで、行為主体性を阻害しないかたちでの外見の美的判断が可能になると考える。
美的懐疑論者の主張:
芸術作品を鑑賞するときのように、多様かつ複雑な観点で(つまり単純に美しいとか醜いとかいうのではなしに)人の外見を鑑賞すればよい。
そのかぎりでは倫理的に問題がない(行為主体性も阻害しない)し、人の外見に対する美的判断や美的制作の実践を放棄する必要もない。
修正主義
修正主義者は、現行の美の基準が害あるものであると考える点では社会的懐疑論者や美的懐疑論者と同じだが、人が自分の外見の美を求めるという欲求や実践をもっとポジティブにとらえようとする。
修正主義者の主張:
個人にとって、自分の外見の美しさ(その内実がなんであれ)を求めることは、十分に価値あることである。それは、ルッキズム問題に見られるように行為主体性を抑圧することもあるが、自尊感情を高めたり、ある種の「解放」に(あるいは「非抑圧的なナルシシズム」に)つながることもある。
また、さまざまな種類の身体美を「わかる」ように趣味を涵養することも重要である。それはひいては、多様な身体的特徴を持った他者に対して適切な態度で接することにつながる(ようするに徳が上がる)。
まとめとポイント
擁護論者も手放しで身体美の評価を擁護しているわけではない。「優れた内面の反映としての美」というかなり条件付きの話をしている。
社会的懐疑論者が一番手厳しく、外見を美的に評価すること全般がよろしくない(なぜならルッキズムだから)という主張をしている。
美的懐疑論者は、外見を美的に評価する実践自体は否定していない。「美醜」という短絡的な観点で外見を評価することを否定しているだけ。
修正主義者は美的懐疑論者に多少似ているが、「美醜」の評価を否定しているわけではない。むしろ外見の「美」の内実の多様性と、自分の外見の「美」を求めることがエンパワーメントとしての働きを持つという点を強調している。
ちょっと休み
ファッションの美的判断と身体
松永の議論
難波の議論
筒井の議論
前提① 言葉づかい
「ファッション」という語はかなり多義的な使われ方をするので、最初に言葉づかいの前提として以下のように約束しておく。
約定的定義:
ファッション=衣服(アクセサリーを含む)・化粧・髪型などによる装い※
以下、ファッションに対する美的判断を取り上げるが、そこで問題にしているのは〈装い〉に対する美的判断であって、個々のアイテムに対する美的判断ではない点に注意。
※ 細かいことを言えば、「装い」という言い方も〈衣服その他を組み合わせて身に着ける行為としての装い〉と〈その行為の結果の全体的な外見としての装い〉という2通りの読みがあって多義的なのだが、今回の話ではその区別は問題にならないと思われるため、とくに限定せずに済ます。松永(2015)では、それぞれ「コーディネーション行為」と「コーディネート」と呼んでいる。
前提② ファッションに対する美的判断
ファッションに対して美的判断がなされることは非常に多い。また、ファッション関連の美的述語は次から次に生み出される※。
その意味で、ファッション文化の少なくない部分が美的実践(美的判断を互いにしあったり、美的判断の対象を互いに提示しあったりする実践)であると言ってもいいかもしれない。
ファッションに対する美的判断には、ファッションに価値づけとしての面も、性質帰属としての面もある(この両側面の区別については第5回の授業資料を参照)。
※ Aesthetics Wikiのリストにファッション関連のカテゴリーが大量にあるのを見れば明白だろう。
前提③ 美的述語としての「おしゃれ」
ファッションに対する美的判断で典型的に使われる美的述語のひとつは、「おしゃれ」だろう※。
「…はおしゃれである」というかたちの美的判断を、以下「おしゃれ判断」と呼んでおく。
おしゃれ判断は、典型的にはプラスの価値づけを行う美的判断である(性質帰属の面もいくらか伴っていることが多いかもしれない)。
※ 「おしゃれ」という美的述語は、当然ながらファッション以外の物事にも頻繁に適用される(インテリア、音楽、レストラン、文体、etc.)。以下で問題にする「おしゃれ判断」は、あくまでファッションに対する「おしゃれ判断」に限定した話である。
前提④ ファッションと身体
ファッションについて論じられる際にお決まりのように言われることだが、ファッションと身体は切り離せない。実際、身体について考えること抜きにファッションについて考えることは、ほとんど不可能である。
引用(松永 2021):
「ファッションにしろ、インテリアにしろ、ウェブサイトにしろ、素材をいい感じに見えるように飾りつけること、つまり「おしゃれにする」ことが評価されるという点では同じだ。服装は身体を、こだわりインテリアは部屋を、ウェブデザインはウェブページの構造を、それぞれ服や家具やCSSによって飾りつけている。〔改行〕そうした「おしゃれ」が評価される文化のなかで、ファッションならではの特徴は何かあるのか? ぱっと思いつく答えは、ファッションは自分の身体を飾るという点で独特だ、というものだろう。」
疑問
ファッションに対して美的判断を行う文化が成り立っていることと、ファッションと身体がほとんど切り離せないことを前提とすれば、当然ながら次のような疑問が出てくる。
ファッション文化(の美的実践としての側面)には、身体に対する美的判断が必然的に伴うのではないか?
結果として、その文化はルッキズムの問題にほとんど不可避に巻き込まれるのではないか?
以下、この論点をめぐる論文を3つ紹介する。
論文① 松永「なにがおしゃれなのか」(2015年)
概要:おしゃれ判断において評価が帰属される対象が何であるかの分析を通して、ファッションに対する美的判断の独特さの一面をはっきりさせるとともに、そこに倫理的な問題があることを指摘している論文。
議論の要点:
おしゃれ判断には、装いの見栄え(つまりコーディネートの良し悪し)を評価するという面だけでなく、同時にその見栄えを作り上げる行為やそれができる能力を評価するという面がしばしばある。
一方、装いの見栄えの評価には、身体に対する美的な評価が暗黙の裡に含まれがちである。
この後者の特徴のおかげで、おしゃれ判断には倫理的な懸念がある。
身体の選択不可能性とおしゃれ判断
引用(松永 2015、176頁、強調引用者)
「〔…〕おしゃれ判断は、そのコーディネートの支持体としての身体への評価をほとんど不可避に含んでいる。というのも、コーディネートの評価は全体的な視覚的特徴に基づいてなされるものであり、そして支持体としての身体はその視覚的特徴に部分的に寄与するものだからである。例えば、身体のプロポーションや肌の色は、明らかにコーディネートの全体的特徴に寄与する。それゆえ、そのコーディネートを「おしゃれだ」と評価することのなかには、暗にではあれ、例えば「スタイルのよさ」のような身体的外見への評価が含まれることになる。〔…〕そして、すでに述べたように、そこで評価されるのは、おしゃれ判断の対象となる人自身の身体である。自分自身の身体は、生得的なものであり、選択可能なものではない。したがって、おしゃれ判断は、しばしばその当人にとって選択可能でないものについてその人を評価していることになる。」
現行のおしゃれ判断のあり方に倫理的な問題がある理由
松永が挙げる具体的な倫理的懸念点は以下の通り:
①生得的な特徴が社会的な利害に直結しがち(ルッキズムと同様の問題)。
②能力評価としての「おしゃれである」は純粋に美的センスの卓越性だけを評価しているように見えるが、実際にはその評価の中に身体的特徴についての美的評価が暗黙裡に混ざりがちという点に問題がある。ようするに、そこにはある種の隠蔽や欺瞞がしばしばある。
※実際、暗黙裡のルッキズムを露悪的に揶揄するために使われることの多いネットミーム「※ただしイケメンに限る」が、ファッションに対して適用されることはしばしばある。
③身体をコーディネートの「支持体」としてのみとらえると、コーディネートを邪魔しないような「標準的で」「癖のない」「無色の」身体が望ましいということになりうる。そのようなおしゃれ観は、「個別的で特殊な」自分の身体の疎外につながりうる。
松永の提案
ファッションの「支持体」としての身体という考え方から、ファッションの「素材」としての身体という考え方に移行すれば、おしゃれ判断の3つの倫理的懸念は軽減される。
食材と料理のアナロジー:
引用(松永 2015、177–178頁、強調引用者)「すでに述べたように、おしゃれ判断には、自己の身体への反省能力を評価するという側面が含まれている。これは、自身の身体を素材として客観視したうえで、それをうまく料理することに対する評価だと言えるだろう。ここで、「支持体」の代わりに「素材」や「料理」という比喩を持ち出すことの意義は大きい。素材あるいは食材は、たんに無色で不可視のものとして後景に退くべきものではなく、むしろその良さを活かしながら全体に貢献すべきものだからである。」
続き
これはようするに、おしゃれ判断の実践が、コーディネート=装いの見栄えそのものに対する評価の側面よりも、その装いをもたらす能力に対する評価の側面に重点を置くような実践になればよい、という主張である。
この点がのちにある種の「能力主義」として批判的に言及される(後述)。
難波「身体のないおしゃれ」(2021年)
概要:「おしゃれをすること」を一種の自己表現としてとらえたうえで、アバターを使ったおしゃれの実践の記述とその発展可能性を示している論文。
議論の要点:
「おしゃれをすること」は、個人的なスタイルの提示であるという点で、ある種の自己表現・自己実現である。
この意味での「おしゃれ」は、従来は自分の身体を使ってなされてきたわけだが、近年のバーチャル文化(VRソーシャルプラットフォーム、VTuber、諸々のオンラインゲーム、etc.)では、物理的な身体の代わりにアバターを使ってなされるようになっている。
この「デジタルな装い」によるおしゃれは、物理的なおしゃれと同様に、自己表現としての役割を十分に担いうる。
松永の議論と異なるポイント
「バーチャルな身体」としてのアバターは、物理身体と違って選択可能である(なんなら気が向けば変更も可能である)。その点で、身体が選択不可能であることから生じるおしゃれ判断の倫理的懸念は、バーチャルなおしゃれには当てはまらない※。
装う行為としてのファッションには、美的判断の対象を作り上げるという側面とは別に、自己表現(個人的なスタイルの提示)としての意義もある。
※ とはいえ、難波は、バーチャルなおしゃれが手放しに倫理的に無害だと主張しているわけではなく、いくつかの倫理的な懸念材料を指摘している。たとえば、アバターを使ったおしゃれ(およびそれに対する美的判断)の現行の実践には、ルッキズムや性差別の観点から言って望ましくない傾向が少なからずあるという。
筒井「自分を美しく見せることの意味」(2021年)
概要:「ルッキズム批判を契機として、容姿の美のある程度多様なあり方が提案され、可視化されつつある現状に関し、そこで生じうる陥葬についての検討を通して、自らを美しく見せることの意味や価値について考えてみたい。」(190頁、強調引用者)
筒井の問題意識①:
ボディポジティブ運動のように「誰でも(頑張れば!)美しくなれる!」といった考え方や、松永のようにおしゃれ判断をある種の能力評価にスライドさせようとする「能力主義」的な考え方は、ルッキズムに対するカウンターとして一定の見るべきところはあるものの、同時にある種の「気後れ」を感じさせるものでもある。
その「気後れ」は、おしゃれか否かを評価する実践に参加しないという選択肢が逆に取りづらくなってしまうという点から生じている。
「気後れ」の正体
引用:
「おしゃれの能力を積んで実践すれば、ある程度誰でも美しい容姿になれる余地が開かれると、身体的特徴を根拠に容姿の美をめぐる競争にそもそも乗らないという選択をすることは、相対的により困難になる。頑張れば誰でも美しくなれるという余地が生じることで、頑張らないでいることに、より積極的な理由が必要になってくるのである。とはいえ、この「頑張れば」は実際に誰しもに成功を約束するものではなく、そこには条件や能力の差が生じうる。〔…〕そのような〔おしゃれであるとされるような〕容姿の美を評価したり実践したりするためには、流行を常に敏感に追い、適応し続けることが必要となる。」(192頁、強調引用者)
引用続き
「容姿の美がある程度身体的特徴から独立に、努力次第で実践しうるものになったとして、そこで実際におしゃれの実践を続け、魅力的な容姿であり続けられる人とは、自分を魅力的に見せる能力を絶えず磨き、流行に合わせて更新し続けるためにリソースを割くことができる人であると考えられる。当然ながら、おしゃれな人であり続けるためには経済的豊かさが必要になろう。ボディポジティブの流行に代表されるような、新しい多様な容姿の美の提案が、人々を励ますようでいて同時にどこか気後れされる感じをも抱かせるのは、この点によるのではないだろうか。」(193頁、強調引用者)
「そういった〔ルッキズムを批判する〕記事や書籍の紙面を見てみると、概ね垢抜けた雰囲気がある。つまり、そのような言説の提示のされ方は、たいがいダサくはなく、おしゃれなのである。あたかも、おしゃれな人でなければ大手を振ってルッキズム反対とは言えないかのようである。ここに果たして欺瞞はないのか、と考えたことのある人もいるのではないだろうか。」(195頁)
筒井の問題意識②
能力主義的なおしゃれ観には、ルッキズムのような害は目立ってないものの、経済的な格差などの不平等が美的評価に反映されやすいといった問題や、流行への適応が絶えず求められるという点で消費社会の産業構造に巻き込まれやすいといった問題がある。
一方で、おしゃれとそれをもたらす能力が、当人や周りの人にとっての心地よさや楽しみやエンパワーメントとして、つまりある種の価値あるものとして機能することもある。さらに、おしゃれが「自分らしさや自尊心」に関わることもよくある(難波の主張と同じ方向)。
ということは、結局わたしたちは、おしゃれをすることやおしゃれ判断をやめるべきなのか否か。
筒井の結論
以下の条件付きで、おしゃれの能力を磨くこと(およびその能力を評価する実践)は尊重されるべきである。
①美の基準に多様性を認める。
②その能力は、個人の自己実現にとって重要なことである。
③その能力がない人(あるいはその能力評価・能力研鑽の実践に参加しない人)を不当に差別しない。
今回引いた論文
Martin-Seaver, “Personal Beauty and Personal Agency,” Philosophy Compass 18, no. 12 (2023).
松永「なにがおしゃれなのか:ファッションの日常美学」『vanitas』4号、2015年
難波「身体のないおしゃれ:バーチャルな「自己表現」の可能性とジェンダーをまとう倫理」『vanitas』7号、2021年
筒井「自分を美しく見せることの意味:ルッキズム、おしゃれ、容姿の美」『現代思想』49巻13号、2021年
松永「アバターに服を着せるのはファッションなのか:身体の微妙な役割」Fashion Tech News、2021年 https://fashiontechnews.zozo.com/series/series_fashion_technology/shinji_matsunaga
ルッキズム関係
今回の授業取り上げたのは、ルッキズムに関わる論点のごく一部である。ルッキズム関係の諸問題を概観するには、とりあえず以下をすすめる。
ロード『キレイならいいのか:ビューティ・バイアス』栗原訳、亜紀書房、2012年
『現代思想』49巻13号(2021年11月号、特集=ルッキズムを考える)に所収の各論考
今回の話とダサ判断の話にどんな関係があるの?
どこかしらで何らかの関係はしていると思いますが、深く考えていないので、何か思ったことがあればリアクションペーパーに書いてください。
必ずしも「…はおしゃれだ」の反対がつねに「…はダサい」であるわけではないということは言えるかなと思います(おしゃれ判断とダサ判断がちょうど裏表の関係になっているケースも少なからずあるとは思いますが)。
次回以降
次回の授業から、ゲストを呼んで話してもらう形式に変わります。こういうスライド資料を作るのは、おそらく今回までです。
なので、次回以降は、教室に来ないとリアクションペーパーが書けない可能性があります。一応Zoomで録音してあとで受講者に共有する方向で考えていますが(リアルタイムのZoom配信はしません)、忘れていたり録音に失敗したりする可能性もあるためです。あらかじめご了承ください。
期末レポートについて
提出要領の詳細は、Scrapboxベースで共有します。数日内にお知らせできると思います。
レポートに関して質問があれば、リアクションペーパーに書いていただくか、メールでお知らせください。
レポートに関する質問も、基本的にはScrapboxのQ&Aページでお答えします(すごく重要な事柄の場合はもっと目立つ答え方をします)。
おわり