メディア文化学特殊講義/美学美術史学特殊講義
月曜4限/第5回
松永伸司
2022.05.23
1. 質問への回答など
2. 2つの流れの「合流」の内実
3. ルールとフィクションの区別
リアクションペーパーのコメントの紹介
アドベンチャーゲームという名称はColossal Cave Adventureという固有のゲーム名に由来するということであったが、Colossal Cave Adventureのどのような特徴がどれだけ見られたらそれはアドベンチャーゲームと言えるというような明確な基準はあるのだろうか。アドベンチャーゲームと他のゲームジャンルとの境界は曖昧になってきているように感じる。
まず名称のもとになっているだけで、現代のADVがColossal Cave Adventureとの類似によってそのジャンルに属すると判定されているわけではありません。また、あらゆる芸術ジャンルに言えることですが、「明確な基準」や「曖昧でない境界」などは普通ありません(「定義」を求めるのも当然ながらナンセンスです)。ただどのジャンルにも典型的な特徴や典型例はあるでしょうし、それなりに詳しい人であれば分類ができる程度の何らかの傾向はあると思います。
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ドラクエとFFの区別がよくついていなかったので調べたりしてみていたのですが、これらはいずれもRPGなのでしょうか?ネット上ではこの二つが三大RPGに含まれていたりするのですが… 特にFFではプレイヤーが主人公というより主人公のキャラクターがあらかじめ設定されているので、これを「ロールプレイング」と呼べるのか疑問に思いました。ドラクエは授業の説明を聞く限りADVだよなあと思います。そもそも、RPGとADVの関係というか違いというかが、わかったようでまだよくわかっていないです。(ADVはRPGに包含されるのですか?)明確に区分することはできないってことでしょうか。
授業で説明しましたが、RPG(role-playing games)という名称とそのジャンルの特徴は切り離して考えたほうがよいです。あらゆるカテゴリーに言えることですが、ラベルと実質は別物です(アライグマは熊ではないですし、青信号は青くないです)。
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RPGやADVがPCでプレイするのに適していた理由の1つとして、アーケードゲームでは実現が難しいキーボードによる入力が必要だったという点があげられていたが、それに加えて「プレイに時間がかかる」ことも大きな理由だと考える。アーケードゲームは公共の場に置かれることが多かったため、長時間占有することが難しく、ストーリー性のあるゲームを初めから終わりまでやりきるには適さなかっただろう。
これに関連して、初期のRPG・ADVにおけるセーブ機能についても気になった。というのも、セーブ機能の有無によってプレイヤーの層や彼らのプレイスタイルが変わってくると考えられるからだ。ドラクエでは「ふっかつのじゅもん」というものがあったようだが、それ以前の作品のセーブ事情も知りたい。
PCでは保存メディアが利用できるので、ファミコン以前からセーブは可能でした(フロッピーディスク以前はカセットテープなどだったようですが)。発売当初のファミコンではセーブができませんでしたが〔…〕
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これらの中で興味深く感じられたのは、日本におけるADVの発達です。コマンドを直接入力する従来のADVは難易度設定が難しいように感じられます(コマンドを難しくするとクリアにたどり着けないなど)。しかし、コマンドを選択式にすることで、根気強く続けることさえできれば、必ずクリアにたどり着けるようになると考えられるので、難易度設定も容易になり、その結果、プレイヤーもやりがいのあるゲームが登場することにつながったと思われます。このようなアメリカのADVにはなかったゲームスタイルを日本が先んじて生み出すことができたのは、ADVがアクション要素の少ないもので、そのストーリー性に重きを置いたものであったためだったと考えられます。つまり、技術面ではなく、アイデア面での優れた部分が目立つADVだからこそ、日本が先にコマンド選択式を生み出せたのではないかと考えています。この点について、先生の意見も教えていただけたらうれしいです。
文化史的な事柄の多くは、個別的で偶然的な要因によります。なので、国や地域や民族などの大きい単位での心理的な傾向性〔…〕に歴史的な要因を求めることは、よほどの証拠がそろわないかぎりしないほうがよいという意見です〔…〕
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最近Twitterで見た、テレビゲームをプレイする時間が長い子どもはIQが2.5ポイント高くなる傾向があるという発表を思い出しました。また、「ゲームをするとバカになる」的な言説はいったいいつ頃から出てきたのかが気になりました。直感的にインベーダーハウスが盛況した時点ですでにそういうことが言われてそうだとは思いましたが、なにかその言説に関する史料などは残っているのでしょうか。
ビデオゲーム悪影響論はいろいろな種類があって歴史も長いですが、「ばかになる」系は日本だと2002年に出た『ゲーム脳の恐怖』という新書の影響が大きいと思います。この本の内容はおおむね否定されていますが、当時けっこう売れた本なのでなかなか打ち消しづらいでしょうね。「目が悪くなる」系は調べたかぎりではファミコンブームの以降に一気に出てきます〔…〕
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ここまでのまとめ
『ドラゴンクエスト』についての補足
「合流」の内実と事例
ビデオゲームの2つの流れ
ビデオゲームには2つの起源とそれに連なる系統がある。
アーケードゲームの系統
アメリカのペニーアーケード(遊戯機械)の文化の延長線上で生じた。
アクションベースのプレイ。短時間志向。
1970年代を通して発展し、1980年前後には多くの名作が作られて「黄金時代」をむかえた。
RPG/ADVの系統
アメリカのウォーゲームの文化の派生として生じた。
シミュレーション、謎解き、ストーリー志向。
1970年代末のパーソナルコンピュータの普及に伴って商業作品が作られ、その後の原型となるような古典的な作品が登場した。
この2つの系統はともに、1980年代半ばに日本で爆発的に普及する家庭用ゲーム機(とくにファミコン)の文化の中に流れ込んだ。
アーケードゲームの流れ
RPG/ADVの流れ
『ドラゴンクエスト』(1986)
UltimaやWizardryの形式を引き継ぐ正統派のRPG。
堀井雄二(ゲームデザイン)や中村光一(メインプログラム)がそれらのRPGに相当はまっていたらしい。
初代はパーティメンバーが1人しかいない(敵もつねに1体)など、ボリュームの点で既存のPCのRPGに比べて物足りない面はある(次の年に出たIIでこの点は大幅に改善される)。
ADVの特徴が色濃くある。
堀井は『ポートピア連続殺人事件』などですでにADV制作の実績があったが、『ドラクエ』にもまたADV的な要素(情報収集、謎解き、ストーリー)を積極的に取り入れている。
続き
とりわけ広報面において『週刊少年ジャンプ』との関わりが大きい。
当時、『ジャンプ』の中に「ファミコン神拳」というビデオゲームの情報(裏技情報、新作紹介、レビューなど)をフルカラーで掲載するコーナーがあたた。
そのライターのひとり(ゆう帝)が堀井その人だった。
そういう事情もあって、『ドラクエ』の制作過程は「ファミコン神拳」で逐次紹介されることになった。
集英社が『ドラクエ』の内部情報を独占的に掲載する必然性を持たせるために、モンスターなどのアートデザインを鳥山明(当時『ドラゴンボール』連載中)が担当することになった(※)。
※ このへんは「ファミコン神拳」の担当編集者だった鳥嶋和彦(マシリト、『Dr. スランプ』の担当でもある)がいろいろなところでしている有名な話だが、当事者の発言内容がどこまで真かはわからないので注意。本来は史料批判が必要。鳥嶋の発言の例:https://miyearnzzlabo.com/archives/77534
『ドラゴンクエスト』(チュンソフト、1986年)
合流?
問い:
「2つの系統が流れ込んだ」というが、具体的にどのように「合流」したのか。
あるいは、それぞれの系統は完全に混じりきらずに残ったのか。
答え:
1980年代半ば以降、多くの主流タイトルで、アクションゲームに成長・謎解き・ストーリーなどの要素が組み込まれたり、逆にRPGやADVにアクション要素が組み込まれたりしていった。
一方で、ADVのストーリー志向的な面をさらに純化させた「ビジュアルノベル」という新しいジャンルが生まれるなど、2つの流れが混ざらずに従来の系統の特徴が維持されている部分もある。格闘ゲームなども、基本的に従来のアーケードゲームの特徴をそのまま引き継いでいる。
「合流」の具体例(ごく一部)
スクロールシューティングゲームにおけるストーリーテリング:
『ゼビウス』が早い例だとよく言われるが、もっとわかりやすい例として『レイディアントシルバーガン』(1998)など。
アクションゲームにおける謎解き:
「メトロイド」シリーズや「悪魔城ドラキュラ」シリーズに代表されるメトロイドヴァニア全般がわかりやすい例。たんにアクションをこなすだけではなく、マップ探索の要素が明確にある。
『スーパーメトロイド』(1994)は、ストーリーテリングの点でも高く評価される。
具体例の続き
RPGにおけるアクション:
「アクションRPG」というジャンルが確立する。
従来からそれに近い傾向の作品はあったが、本格的なRPGのルールにアクション要素を加えたのは『聖剣伝説』(1991)などが早い例(PCゲームにはそれ以前からある)。
ADVにおけるアクション:
純粋なADV(推理物など)は相対的にマイナーなジャンルになり、ちょっとしたアクションをこなしながらちょっとした謎解きやストーリーを経験していく「アクションアドベンチャー」が一大ジャンルになる。
事例は大量にあるが、「バイオハザード」シリーズ、「ゼルダの伝説」シリーズなどもここに入る。
ルールとフィクションの区別
2つの系統との関係
イェスパー・ユール『ハーフリアル:虚実のあいだのビデオゲーム』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年
ユールの考え
イェスパー・ユールは著書『ハーフリアル:虚実のあいだのビデオゲーム』で次のように主張している。
タイトルの『ハーフリアル』は、ビデオゲームがふたつの異なる側面を同時に持つものであるということを表している。ビデオゲームは、プレイヤーが実際にやりとりする現実のルールからなるという点で、またゲームの勝敗が現実の出来事であるという点で、現実的(real)なものだ。一方で、ドラゴンを倒すことでゲームをクリアするという場合、そのドラゴンは現実のドラゴンではなく虚構的(fictional)なドラゴンだ。そういうわけで、ビデオゲームをプレイすることは、現実のルールとやりとりすることであると同時に、虚構世界を想像することでもある。そして、ひとつのビデオゲーム作品は、ひとまとまりのルールであると同時にひとつの虚構世界でもある。〔p. 9〕
続き
〔…〕「ハムレットはデンマーク王子だ」という言明は、当の戯曲が作り出す虚構世界においては真だということになる。そして、われわれがふつうその言明を受け入れるのは、当の戯曲の可能世界を表すものとしてその言明を解釈しているからにほかならない。
次に、「テニスはふたりの人がラケットを使ってボールを打つゲームだ」という言明を考えよう。この言明は、通常の意味で真だ。というのも、それは現実世界についての言明であり、テニスというゲームが実際にどのようにプレイされるかについて述べるものだからだ。さらに、ビデオゲームの『Tetris』(図5.3)を考えよう。たとえば、『Tetris』について次のように言うことができる。「『Tetris』では、列をブロックで満たすと、その列が消える」。この言明は、いま挙げたテニスについての言明とほとんど同様に、現実世界について述べるものだ。『Tetris』のルールは物理的なものではなくプログラムされたものだが、このことは、それが現実世界について検証可能な言明であるという事実を変えるものではない。〔pp. 206–207〕
続き
〔…〕最後に、抽象的でないビデオゲームを考えよう。たとえば、『鉄拳タッグトーナメント』(図5.4)について次のように言うことができる。「エディ・ゴルドはブラジル人で、カポエイラという武術を使って戦う」。この言明は真だろうか。その判断をするには、ハムレットに対する見方とテニスに対する見方を組み合わせる必要がある。つまりこういうことだ。
1. 現実世界上には、エディ・ゴルドと呼ばれる人物は存在しないが、『鉄拳タッグトーナメント』の虚構世界上には、カポエイラという武術を使って戦うエディ・ゴルドという名前の人物が存在する。
2. それと同時に、現実世界において、『鉄拳タッグトーナメント』のプレイヤーが、エディというキャラクタを選択し、エディを操作してカポエイラの技を使って相手を攻撃することができるということは、事実として真だ。〔pp. 207–208〕
続き
〔…〕第一の見方は、『鉄拳タッグトーナメント』をフィクションとして見ている。一方、第二の見方は、同じゲームを現実の活動として見ている。エディという虚構的なキャラクタについての説明は、〈『鉄拳タッグトーナメント』でこのキャラクタを選択すると、特別な技がいくつか繰り出せるようになる〉という現実世界上の事実についての説明にもなっている。つまり、「エディ・ゴルドはカポエイラの技を使って戦う」という言明は、そのゲームの虚構世界について述べるとともに、そのゲームの現実のルールについても述べているのだ。〔p. 208〕
ユールの考えのまとめ
ルールとフィクションの区別:
フィクション:当のゲームで描かれている虚構世界とその中での事実(キャラクターや出来事のありかた)を想像するための要素。
ルール:プレイヤーがゲーム上で実際に何ができるか、いまどういうゲーム状態にあるか、何をすればどうなるか、などプレイ行為に関わる要素。
ルールとフィクションの関係:
フィクションはプレイヤーにルールを理解させるために使われることがよくある。
ルールが虚構世界を想像させる働きを持つこともある(この働きは「シミュレーション」と呼ばれる)。
画面上の同じ部分が、ルールとフィクションの両方の働きを持つことも普通にある。
カイヨワによる区別
ユールの「ルール/フィクション」の対概念は、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』における遊びの定義論に直接に由来している。
カイヨワによる遊び(jeu)の定義:
※ フランス語の"jeu"は英語における"play"と"game"を包摂する語であり、それゆえこの定義も実際には遊びの定義というよりゲームの定義という側面が少なからずある。英訳でも、"jeu"が"play"と訳されている箇所と"game"と訳されている箇所がまちまちだったりする。
1. 自由な活動。〔…〕〔自発性〕
2. 隔離された活動。〔…〕〔日常生活からの分離〕
3. 未確定の活動。〔…〕
4. 非生産的活動。〔…〕
5. 規則のある活動。〔…〕〔ユールの言うルールに相当〕
6. 虚構の活動。〔…〕〔ユールの言うフィクションに相当〕〔p. 40〕
続き
カイヨワの見解:
この定義における第5項目(ルール)と第6項目(フィクション)は、働きとしては「等価」である。つまり、どちらも日常生活からの分離(第2項目)をもたらす働きを持つ。
一方で、両者は「互いにほとんど相いれない」ものである。というのも、前者が現実にはないまったく新しいルールを新たに導入するものであるのに対して、後者は現実や(既存のフィクション)にすでに存在する事柄を模倣(表象)するものだから。
なので、定義における第5項目と第6項目は、「あるいは」(OR)の関係にある。つまり、どちらかが満たされればよい。
ルールベースの遊びは、スポーツなどの競争の遊びや賭け事などの偶然の遊びに典型的に見られ、フィクションベースの遊びは、ごっこ遊びなどに典型的に見られる。
ユールによるカイヨワへの反応
ユールは、このカイヨワのOR説に対して、ビデオゲーム(や一部のボードゲーム)は、ルールとフィクションが「かつ」(AND)で組み合わさったものなのだと主張する。
カイヨワは、ゲームがフィクションを含む可能性を否定しない。しかし驚くことに、ゲームはルールかフィクションのどちらかだと述べている。つまり、ルールにもとづくゲームは、作り事(make-believe)の要素を持たないというのだ。〔…〕
しかし、この排他的な区分けは、最近のボードゲームやビデオゲームの大半にそぐわないだろう。ほとんどのビデオゲームは、ルールを持ち、かつ、作り事でもある。〔『ハーフリアル』p. 24〕
少し整理
カイヨワやユールが言う「ルール/フィクション」は次のように整理しておいたほうがよい。
まず、ここで主に想定されている「フィクション」は、「インタラクティブなフィクション」である。映画や小説よりは、ごっこ遊びなどのほうがイメージが近い。
ルールとフィクションの片方しかないビデオゲームはまれだとしても、どちらの側面に主眼があるか(それぞれの主従関係がどうなっているか)については、ゲームタイトルごとにわりと明確であることが多い。
2つの流れとの関係
これを踏まえて、アーケードゲーム系統とRPG/ADV系統の特徴をそれぞれ記述しなおすと、以下のように言えそう:
初期のアーケードゲーム系統では、一貫してルールベースの遊びが主だった。
たしかにフィクション要素は皆無ではないが(Pongは〈卓球〉であり、Breakoutは〈脱獄〉であり、『スペースインベーダー』は〈宇宙からの侵略者への対抗〉である)、それらはあくまで抽象的な遊びのルールを理解したり色づけたりする程度の役割を持つにすぎない。
一方で、初期のADV/RPGの系統では、一貫してフィクションベースの遊びが主だった。
D&Dの時点ですでにそうであったように、RPGのルールは、虚構世界における具体的なキャラクターの属性やその冒険のありかたをシミュレートするためにあるものであり、それ自体として取り出して(想像ぬきに)遊ぶようなものではない。
ADVは、さらにルールの側面がかなり切り詰められている。その遊びの主眼は、虚構世界上の探検や謎解きやストーリーの展開にある。ルールとしてどういうコマンドが用意されているか、フラグがどこでどのように立つか、といったことは、そうしたインタラクティブなフィクションを作るためにある。
続き
最初に事例を見たように、1980年代半ば以降は、多くのゲームジャンルにおいて両者の主従関係があいまいになっていく傾向にある。
一方で、明らかにルール的側面が主のゲームや、フィクション的側面が主のゲームも生き残っている。
あるいは、同じゲームタイトルに対して、人によって遊びかた(ルール面を重視して遊ぶか、フィクション面を重視して遊ぶか)が異なるということもあるかもしれない。
以上のような意味で、ビデオゲーム(その文化と遊びかた、およびそれに対応した作品のありかた)には二面性がある。
来週の予定
「ルドロジー対ナラトロジー論争」の説明。
ルールとフィクションの相性の悪さを示す事例の紹介。
それを説明するのに使える記号の理論の紹介。
理論を使った事例の説明。
スライド最後
勉強用の文献
ルールとフィクションの区別について
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社、1990年(1~2章)
イェスパー・ユール『ハーフリアル』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年(とくに5章と7章の前半)
ゲームスタディーズの初期の学説史(ルドロジー対ナラトロジー)について
松永伸司「本質論としてのゲーム・スタディーズ」、中沢新一・中川大地編『ゲーム学の新時代』NTT出版、2019年