メディア文化学特殊講義/美学美術史学特殊講義
月曜4限/第6回
松永伸司
2022.05.30
1. 質問への回答など
2. ルールは現実的か
3. ルドロジーとナラトロジー
4. 不自然さを説明する(前編)
リアクションペーパーのコメントの紹介
ユールの定義したルールとフィクションが、イマイチわかりにくいです。通常使う語彙の意味と違うので
日常的な用語法と意味が違っていてわかりにくいのはその通りですね。このケースにかぎったことではないですが、テクニカルターム(専門用語)は、日常的な意味からずれていようがいまいが、ふだんの用法はいったん忘れて当の議論の文脈でどういう意味で使われているかに注意を向けるほうがよいです。とくに哲学の本や論文を読むときにはそういうことが頻繁にあります。
今となっては、「アドベンチャーゲーム」というとアクションアドベンチャーやそれに準ずるものが目立つような状況で、国内外問わずそういったものが主流になっているように思われ、授業内でもあった通り、やはり純粋なADVはむしろ(相対的に)マイナーなジャンルとなっているように感じられる。日本においては、授業でも取り上げられたビジュアルノベルが比較的従来のADVの流れをそのまま受け継ぐものであるが、ビジュアルノベル的な形態はあまり海外作品で思い当たるものがなく、日本独自のものではないかと思った。関連して、海外においては従来のADVに近いタイプのものは初期ADVより後にはどのようなものがあるのか、そしてそもそも海外のビデオゲームにおいて、2つの流れの関係は日本とは異なるような独自の動向を見せたのかどうかが気になった。
日本とは異なるADV(非アクションADV)の展開としては、Myst(1993)が重要なタイトルとしてあります。これはのちに「ポイント&クリックアドベンチャー」と呼ばれることになるタイプのADVですが、相対的にマイナーながら、それなりに息の長いジャンルの伝統になります。
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分岐も選択肢も一切ないヴィジュアルノベルにルールと呼べるものはあるのでしょうか。
また、ルールの有無はさておき、それをノベル「ゲーム」と呼ぶ人が一定数存在しますが、それはメディアプレーヤー全般を「ゲーム」とみなす宣言として理解されかねないと思いました。
前者の疑問については、ルールなしでいいと思います。
後者の疑問については、毎度話している話ですが、ある作品が「ノベルゲーム」という名前のジャンルに属するからと言ってそれがゲームであるということにはなりませんし、もっと言えばビデオゲームであるからと言ってゲームであるということにもなりません(多くの人、とくに日本語話者はそこを混同しますが)。「ビデオゲーム」は特定の表現形式(文化的カテゴリー)を指す名称であり、「ゲーム」(少なくともユールなどが使う意味でのそれ)は特定の働きを持つ人工物または特定のあり方をした活動を指す名称です。
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ユールのルールとフィクションの考え方は、ルールがそのゲームのプレイにかかわる要素で、プレイヤーのいる現実での事実を示し、フィクションがそのゲーム内の虚構世界での事実や出来事を表し、フィクションとルールが互いに影響を与え合うこともあるというものだったが、これとカイヨワの遊びの理論とのかかわりでうまく理解しきれない部分があった。カイヨワの遊びの理論の第五項目(ルール)と第六項目(フィクション)では、ルールが現実にはない新しいルールを導入するもの、フィクションが現実を模倣、表象するものとの見解が示されており、現実との距離がカイヨワの理論とユールの理論では反対になっているような印象を受けるからである。〔…〕
この点はおそらく「現実との距離」で考えるとわかりづらくなってしまうのだと思います。カイヨワの理屈だと、フィクションの遊び(ごっこ遊びなど)では、何か(たとえば自分の身体や遊び道具)を既存の別の何かになぞらえるわけなので、実際にはそうでないものをあたかもそうであるかのように(as if)見なすという態度が必要になります。いわば想像的な態度です。
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「現実的」と「虚構的」の意味
状態機械としてのルール
プログラム/表象内容/制度の存在論
個人的に理解できなかったのはユールの現実的/虚構的のラベリングの判断基準である。「ゲームの勝敗が現実の出来事であるという点で、現実的(real)」とあるが、ゲームのNPCであったり、プログラムとの虚構的な世界の中での戦闘の勝敗は、虚構的なものに分類されないのか。ゲームという虚構を通して現実の人間と戦った上での勝敗は現実的だと思うが。そこが腑に落ちない。
ルールとフィクションについて、ユールの「『Tetris』では、列をブロックで満たすと、その列が消える。この言明は、いま挙げたテニスについての言明とほとんど同様に、現実世界について述べるものだ。」という言葉について疑問が残った。ブロックで満たすと列が消えるというのは現実で起こらないからフィクションである、と私は考えたのでこの部分があまり分からなかった。この部分をもう一度教えていただきたいです。
初期ゲームスタディーズの対立(とされているもの)
規範的/記述的
ルドロジー対ナラトロジー(ルドロジスト対ナラトロジスト)とは
一般に、初期のゲームスタディーズ(2000年前半)において生じたアプローチ上の対立とされている。
簡単に言えば、ビデオゲームをゲームのための媒体として研究すべきなのか、物語のための媒体として研究すべきなのかという点での対立。
とはいえ、当事者たちが認めるように、実際のところは、何か実質的な論争があったというより、たんなる先行研究批判が理論上の対立として(主に外野によって)大げさに煽られた面が大きい。
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ルドロジー(ludology):
ゴンサロ・フラスカが1999年の論文で「ゲームと遊びについての研究」を指すために導入した新語。"ludus"はラテン語で「遊び」の意味。
ビデオゲームが持つゲームの媒体としての側面を強調する初期のゲームスタディーズの論者は、「ルドロジー」という看板を掲げながら、それまでの先行研究がビデオゲームの物語媒体としての側面しか論じていないことを批判した。
結果的に、そのような立場の論者が「ルドロジスト」としてラベリングされることになった。フラスカ、イェスパー・ユール、マルック・エスケリネンなどが代表的な論者。
ナラトロジー(narratology)
一般には「物語論」を指すが、この場合の「ナラトロジー」は、ルドロジストらによって批判された先行論者のアプローチを指す。
具体的に誰がナラトロジストに含まれるのかははっきりしないが(自称しているわけではないので)、ブレンダ・ローレル、ジャネット・マレー、マリー=ロール・ライアンなどが挙げられる(とくにマレーは必ず名前が出る)。
勉強用の情報
「ルドロジー対ナラトロジー」の内実は日本ではほぼ紹介されていないので(また聞きのイメージで書いただけのようなうさんくさい言説は多少ありますが)、ちゃんと勉強する場合は、当事者たちのもとの英語論文をいろいろ読むとよいです。
とりあえずの入門用の文献:
松永伸司「本質論としてのゲーム・スタディーズ」、中沢新一・中川大地編『ゲーム学の新時代』NTT出版、2019年
PandAのトップページ経由でPDFを共有してあります。
公開されているものではないので、私用(自分の学習用)に留めてください。
松永伸司「ゲーム研究の全体マップ」『ゲーム研究の手引き』文化庁、2017年 https://mediag.bunka.go.jp/mediag_wp/wp-content/uploads/2017/05/guide_to_game_studies_v2_public.pdf
松永「本質論としてのゲーム・スタディーズ」から引用(pp. 53–56)
〔…〕ゲーム・スタディーズの成立への流れを作ったのは、こうしたニューメディア・スタディーズに連なるフィンランドやデンマークの研究者たちだった。彼らは、既存のニューメディア論者がビデオゲームを含めたデジタル技術を新しい物語表現の媒体としてのみ取り扱っていることを批判した。〔…〕
先行論者に対する態度に温度差はあるものの、ビデオゲームをどのような媒体として(あるいは何を実現するための媒体として)理解すべきかという点で、彼らの見解は一致している。従来のニューメディア論者は、物語の媒体という観点からビデオゲームを研究してきた。しかし、それは「理論の帝国主義」「植民地化」であり、不当な越境である。むしろ、ビデオゲームはゲームの媒体である。ビデオゲームはゲームとして研究されなければならない――これが彼らの主張である。そしてそれゆえ、彼らにとっては、ビデオゲームを正当な仕方で研究するための新しい分野、つまりゲーム一般を対象とする分野が必要だった。〔…〕
続き
もちろん、彼ら――フラスカが提案した名称にしたがって、しばしば「ルドロジスト」と総称される――の主張は、やや行き過ぎの感もある。ユールのテキストからわかるように、ビデオゲームをどのような媒体として考えるかは、少なくとも部分的には、何を典型的なビデオゲームとして考えるかによるからだ。アーケードゲームを起源とするアクションゲームの伝統に焦点をあわせれば、ビデオゲームはたしかにゲームの媒体だろう。一方で、すでに見たように、ビデオゲーム文化にはフィクションや物語を重視する伝統もある。その側面に注目するかぎりでは、ビデオゲームはインタラクティブな物語の媒体として理解できるだろう。
とはいえ、たとえ行き過ぎた主張だとしても、ルドロジストたちが決定的に重要な指摘と提案をしているのはたしかだ。ゲームであることは、ほかの表現媒体にはないビデオゲーム固有の特徴である。その点で、ビデオゲームは、ボードゲーム、スポーツ、パズルといった伝統的なゲーム・遊びに連なっている。そして、そうした連続性のもとでビデオゲームを理解するために要請されたのが、ゲーム・スタディーズにほかならない。
「ルドロジー対ナラトロジー」から得られること
この対立は、ビデオゲームをどのようなものとして(あるいはどのような観点から)研究すべきかという論点をめぐるものだった。
これは、ビデオゲームがどのようなものであるか(あるいはどのようなものであったか)という論点とはひとまず切り離したほうがよい。
前者は規範的(normative)な問題であり、後者は事実問題あるいは記述的(descriptive)な問題である。
歴史記述も含め、文化の研究に規範的な態度(どうあるべきか、どう見るべきか)が無自覚に入り込むことはよくあるので、読み手としても書き手としても十分に気をつけたほうがよい(自覚的にやるぶんにはありだが)。
ビデオゲームのへんてこ現象
記号の理論の導入
ルールとフィクションの食い違い?
これらの例は、ぱっと見で「ルールとフィクションの食い違い」として説明できそうだ。
とはいえ、両者がどう関係しているのか、どういう構造でそのような不自然さが生まれているのかはそこまではっきりしない。
これらの例がすべて同じ種類の不自然さなのかどうかもはっきりしない(それぞれ別の構造によって生まれている不自然さかもしれない)。
こうしたことを考えるために、記号の理論を導入する。
基本的な概念
記号:
それによって何かをあらわすもの。
言葉や絵や映像がわかりやすい例。
内容:
記号によってあらわされるもの。
物体、性質、抽象的な概念、事実、出来事など、いろいろある。
記号と内容の結びつきは、原理的には恣意的なことが多いが、いったん結びついたあとはある程度安定している。
続き
記号と内容の例(※):
りんごの絵 → りんご
「りんご」という語 → りんご
"apple"という語 → りんご
「りんご食べた」という発話 → 発話者がりんごを食べたこと
以下では、記号のレベルと内容のレベルを明確に区別するので、混同しないように注意。
※ 例示そのものにも何らかの記号を使わざるを得ないので、記号と内容の例を示すのは実はけっこう工夫がいる。厳密にするのであれば、本来細かい取り決めが必要。記述する側の記号・内容のセットを「メタ言語」といい、記述される側の記号・内容のセットを「対象言語」という。上記の「りんごの絵」のところをたとえば「🍏」などにするのは混乱を招くおそれがあり、よくない例示である。
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年
ビデオゲームの画面(※)の記号としての働きを記述するための理論
松永『ビデオゲームの美学』(とくに4~5章):
ユールの「ルール/フィクション」の区別を前提として、「それら2つの側面をあらわす記号」という観点から、ビデオゲームの画面の働きを考える理論。
ようするに、ひとつの画面(記号のレベル)に対して、2つの意味(内容のレベル)があるという発想。
記号および二種類の内容があるので、三項図式になる。
いくつかの理由から、ユールの「ルール」は「ゲームメカニクス」と言い換えられている。
※ わかりやすさの都合上、画面(視覚的記号の媒体)に限定しているが、実際には音声媒体(や場合によっては触覚媒体)についても同様のことが言える。
続き
以下の資料ベースで説明する。
松永伸司「『ビデオゲームの美学』解説」、ワークショップ「ビデオゲームの世界はどのように作られているのか?」大阪成蹊大学、2019年
https://drive.google.com/file/d/1LbwCxyUyzy7nBySzw7HDYB8bTKI0EsnQ/ view?usp=sharing
来週の予定
「不自然さ」の構造を記号の理論によって説明する。
逆に、ある種の「自然さ」あるいは「リアリズム」がどういう事態なのかについても、絵のリアリズムについての理論を参考にしながら説明する。
スライド最後
勉強用の文献
ルールとフィクションの諸相について
イェスパー・ユール『ハーフリアル』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年(4章以降)
ゲームスタディーズの初期の学説史(ルドロジー対ナラトロジー)について
松永伸司「本質論としてのゲーム・スタディーズ」、中沢新一・中川大地編『ゲーム学の新時代』NTT出版、2019年