メディア文化学特殊講義/美学美術史学特殊講義
月曜4限/第7回
松永伸司
2022.06.06
1. 質問への回答など
2. ルール/フィクションの概念の確認と補足
3. 記号の理論
リアクションペーパーについての注意
コメントの紹介と回答
スライド資料だけを見てコメントを書いている人向け
〈スライドには書いてあるが、実際の授業当日はそこまで進まず授業内で話していない内容〉について、あたかも授業内で話された内容であるかのようにコメントを書くのは反応に困るのでやめてください。
すでに伝えているように、授業に出席しているかどうかそれ自体は成績評価の材料にはしませんので、スライドだけを見てコメントを書いたなら正直にその制約内でのコメントであるというていで書くようにしてください。
スライドしか見ていないことを明示するかしないかはどちらでもかまいません。とにかくそのことを偽るような書き方にしないでほしいということです。
全員向け:用語法に意識的に
コメントを書く際には、言葉づかい(用語法)に十分に意識的になってください。とくに理論的な話になると、用語の理解と使い分けが決定的に重要になります。場合によっては、コメント上での用語法が雑なだけで、授業の内容をあまり理解していないと認定せざるを得なくなる可能性があります。
たとえば「ゲーム」と「ビデオゲーム」は、明確にどちらを指すかがわかる文脈以外(つまりゲームとビデオゲームの片方しか問題になっていないとき以外)ではできるだけ区別して使うようにしてください。
とくに前回の「ルドロジー対ナラトロジー」の話はまさにビデオゲームをゲームとして考えるかどうかということが問題になっているわけなので、2つの用語を明確に分けて使わないと意味がないです。
ほかのすべての理論的な用語についても同様のことが言えます。
続き
そのほか、問題のある言葉づかいとして、写実的/写実性(本当らしい/本当らしさ)のことを「リアル/リアリティ」と呼ぶというのがあります。
これは単純に和製英語なので推奨できません。
加えて、ユールが言う意味での「現実的(real)」と混ざるとミスリーディングです。
この授業では、それを指すのに「リアリスティック/リアリズム」を使います(この用語も多義性の点で問題がないわけではないですが)。
続き
理論的な用語(テクニカルターム)は、その使用者(場合によってはその人が属する研究コミュニティの全体)が特定の目的のもとに特殊な意味を持つものとして(場合によっては明確に定義するかたちで)便宜的に導入しているものです。
日常的な文脈でそれと同じ言葉が使われるからと言って、日常的な言葉づかい(あるいは一般的な辞書に載っているような意味)に引きつけて理解しようとしないように十分注意してください。
もちろん、理論上の意味と日常的な意味が近い場合も多いですが、ユールの「ルール」のように両者が大きくずれている場合もあります。
また、ビデオゲームやデジタルメディアなどを「物語の新しい形」みたいに研究したり賞賛したりするタイプの研究がナラトロジーと仰っていましたが、どういうふうに研究していたのかが疑問でした。アーケードゲーム系統の(例えば「スペースインベーダー」とか)ものも、すべて「物語の新しい形」とみなしていたのでしょうか。確かに「スペースインベーダー」とかなら、「宇宙からの侵略者」みたいなイメージストーリーはできると思うのですが、そのような種類の研究であったと理解すればいいでしょうか。これも疑問になりました。
アーケード系統はほぼ取り上げられてないと思いますが、たとえばTetrisをある種のメタファー(次から次に降ってくる仕事をどんどん片付けなければいけないという現代の資本主義社会における状況を再現している)として解釈しようとするみたいなのはあります。
19枚目のスライドに、ナラトロジーは「理論の帝国主義」「植民地化」であると書いてありましたが、これはどのような意味でしょうか。なぜルドロジリストがそこまでナラトロジストを見下したのかあまり腑に落ちませんでした。
「帝国主義」「植民地化」は自治や自立を侵犯しているというニュアンスでしょうね。具体的には「映画研究者や文学研究者が、映画や文学を扱うための理論をビデオゲームに無理に適用することで、ビデオゲームの特性をないがしろにしている」といった意味合いだと思います。
ちなみに「見下した」わけではなく、下からの批判というイメージです。〔…〕「自分たちが大事にしている文化に対して、よくわかっていなさそうな年長者がポイントのずれたことを言っている(そしてそれをありがたがっている人たちがいる)ことに対するネガティブな反応」として想像すると、ルドロジストの動機が想像しやすいかと思います。
全体 👉 https://scrapbox.io/pikopiko2022/%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E3%81%AEQ&A
見えない壁という話で思ったのが、VRゲームでのゲームと現実とのリンクである。自分が現実空間で動く事でゲーム世界のキャラクターが動くタイプのVRゲームの場合、たとえゲーム空間に広大な世界が広がっていても、プレイヤーがいる現実空間に何か物があったり壁があったりすると、そこに阻まれてしまうということが生じる。こういった事例もルールとフィクションの食い違いと言えるのだろうか。
考えたことがなかったですが、普通のビデオゲームで言えば、コントローラーのスティックがすごく固くなっていて動かしづらいとかに近いんじゃないでしょうか。ルールやフィクションがどうこういう以前の入力インターフェイスレベルでの問題ではないかということです。
ゲームの画面があらわす二つの機能があり、片方ずつしか表さない場合と両方表す場合があるということだが、スライドの中で①②③の三つで示されている区別は慣習とゲームの実践という二つの段階で行われ、たとえば「実は雲に触れたらマリオが死ぬ」というようなギミックがあった場合に最初の慣習が裏切られて画面上の雲が①→②にプレイヤーの意識の上で移行するというふうに考えたが、この理解で問題ないだろうか。
(今回のスライドの最後に説明を入れました。)
記号と内容の結びつきが生じる実際のプロセスがそういう感じになることはあるでしょうね(それ以外にもいろいろなあり方があると思いますが)。『ビデオゲームの美学』の中で少しだけそのあたりの話をしているので、スクショを貼っておきます(p. 216)。
スクショ 👉 https://scrapbox.io/files/629b7aaacb46560023a42757.png
記号と内容の話の所で、実際のりんご(果物屋さんにある)が記号に対する内容であるというのは分かるのだが、私達が実際のりんごをイメージするときのそのりんごのイメージは、内容でも記号でもないのだろうか?そのイメージを絵にかいたらそれが記号になるということだろうか。
心の中のりんごイメージは「心的表象(mental representation)」と呼ばれます。分野(近世哲学や認知科学など)によっては、端的に「表象」と呼ぶこともあります。心的表象も、心の外の世界にあるりんごが映し出されたものという意味で、ある種の記号と考えるのが普通ですね("representation"自体がもともとそういう意味です)。ただこの授業で問題にしている「記号」は、心の外にある記号(言葉や絵など)だけです。
ちなみに今回は二項図式で記号の働きを考えていますが、三項図式をとった場合に、記号とそれが指す外的な対象のあいだに心的なイメージ(あるいはそれに近い心的な何か)を置く立場はあります。この図式は「意味の三角形」などと呼ばれることもあります。
また、ビデオゲームの画面に出てくるマリオのグラフィックは、マリオというフィクションのキャラクター(内容)を表す記号であるが、そのフィクションのキャラクターというものは実際には存在せず、記号と結びつく内容が記号と独立しておらず記号を含んで初めて内容になるのではないかということを疑問に思った。りんごという言葉やりんごの絵がこの世に無くてもりんごはどこかの木に生えているだろうが、マリオはそれとは違い、マリオという名前やグラフィックや説明する文章、プレイヤーの操作、ゲームメカニクスなどの現れとして作り出されたもののように思える。それは記号と内容の関係で語れるものなのだろうか。
マリオのようなフィクショナルキャラクターが(あらかじめ存在しているものが記号によって表されるというよりも)まさにその記号によって作られるというのはおっしゃる通りです。この点については「作られるものであると同時に表されるものとしての性格も持つ」というややこしい理屈を用意してはいるのですが(詳しくは『ビデオゲームの美学』6章3~4節を参照。ポイントになるところのスクショを貼っておきます)、たしかにちょっと無理があるかもしれません。どちらにせよフィクションの哲学一般の話題であって、ビデオゲームに特有の論点ではないです。
スクショ 👉 https://scrapbox.io/files/629b92eb6a3e68001db5b4e8.png
概念の再確認と補足
ユール『ハーフリアル』の考え
ルールとフィクションの区別:
フィクション:当のゲームで描かれている虚構世界とその中での事実(キャラクターや出来事のありかた)を想像するための要素。
ルール:プレイヤーがゲーム上で実際に何ができるか、いまどういうゲーム状態にあるか、何をすればどうなるか、などプレイ行為に関わる要素。あるいは、ゲームプレイにおけるインタラクションの直接の対象。
注意:
「ルール」「フィクション」ともに、日常的な言葉づかいとはかなり異なる意味で使われている(とくに前者)。
ユールはルールが現実的なものだと主張しているが、この論点(存在論)はひとまず重要ではないので、あまり気にしなくてよい。とにかく働きとして区別できるというのが重要。
フィクション関係の用語についての補足
フィクション:
虚構世界の状況を想像させるためのテキストや絵や映像のこと。
ユールの用語法はぶれているが(虚構世界を指すのにも使われることがある)、この授業ではこの意味で統一する。
虚構世界(fictional world):
現実世界とは異なる想像上の架空の世界。あたかもそれがあるかのように(実際にはないとわかりつつ)想像されるもの。
写実性の度合い(現実と似ている度)はさまざまだが、リアリスティックかどうかと虚構的かどうかはぜんぜん別の話なので、混同しないこと。
ルールの実体についての補足
ユールは、この意味での「ルール」をある種の状態機械(state machine)として考えている。
状態機械は、以下の働きを備えるシステム:
可能な状態の集合(その中でどのような状態がありえるか)
状態遷移規則(どの状態でどういう入力があったら次にどうなるか)
入出力の規則(どのような入力と出力が可能か)
状態機械自体は、抽象的なもの(働きをモデル化したもの)だが、ビデオゲームを含むコンピュータプログラムは、状態機械を物理的に実現する。
続き:ルールについて
ユールの考えでは、伝統的なゲーム(ボードゲームやスポーツ)もまた、ある種の状態機械である。
ただし、その場合の状態機械は、コンピュータによって実現されるのではなく、物理的な道具(ボードゲームの場合であれば駒や盤、スポーツの場合であれば身体や競技場)とそれを使うための規範(プレイヤー間で共有される心理的な制約)によって、つまり一種の制度として実現される。
ルールに関する松永による追加の主張:
ユールの「ルール」という用語はわかりづらいので「ゲームメカニクス」に変えるべき。
ビデオゲームのゲームメカニクス(ルール)もまた、全面的に物理的に実現されるわけではなく、少なくとも部分的に制度によって実現される。
記号の理論(三項図式)の導入
ルールとフィクションの相互作用を記号で考える
基本的な概念
記号:
何かをあらわすもの。
言葉や絵や映像がわかりやすい例。
内容:
記号によってあらわされるもの。
内容になりえるものは、物体、性質、抽象的な概念、事実、出来事など、いろいろある。
記号と内容の結びつきは、原理的には恣意的なことが多いが、いったん結びついたあとはある程度安定している。
ここで言う「記号」には、「図式的(内容がスカスカ)」みたいな意味合いはない。棒人間の絵のような図式的な絵と同様に、写実的な絵もそれが何かをあらわす(内容を持つ)という点で記号の一種である。
続き
記号と内容の例(※):
りんごの絵 → りんご
「りんご」という語 → りんご
"apple"という語 → りんご
「りんご食べた」という発話 → 発話者がりんごを食べたこと
以下では、記号のレベルと内容のレベルを明確に区別するので、混同しないように注意。
ちなみに言語の話をする場合は、とくに記号と内容がごっちゃになりやすいので、鍵かっこ(引用符)をつけると記号のレベルを指すというルールにしておく。
※ 例示そのものにも何らかの記号を使わざるを得ないので、記号と内容の例を示すのは実はけっこう工夫がいる。厳密にするのであれば、本来細かい取り決めが必要。記述する側の記号・内容のセットを「メタ言語」といい、記述される側の記号・内容のセットを「対象言語」という。上記の「りんごの絵」のところをたとえば「🍏」などにするのは混乱を招くおそれがあり、よくない例示である。上記の鍵かっこも、メタ言語であることを明示するための工夫の一種。
続き
複数の記号が組み合わさって、より大きな単位の記号として働くことがある。
単語が組み合わさることで、句や文ができる。
部品となる絵が組み合わさることで、より大きな絵ができる。
記号の働きは連鎖することがある。つまり、ある記号によってあらわされた内容が、さらに別の内容をあらわす記号として働くことがある。
いわゆる象徴(シンボリズム)や隠喩(メタファー)やほのめかし(コノテーション)が、この記号の連鎖の働きとして説明されることもある。
りんごの絵 → りんご → 原罪
「ぶぶ漬けでもどないどす」 → お茶漬け食べますか → はよ帰れ
余談
この意味での記号とその働きは、記号論(semiotics)や記号学(semiology)という分野で論じられてきた。独立の分野として確立したのは20世紀と言っていいが、問題意識や議論そのものは古代からある。
勉強用文献:Winfried Nöth, Handbook of Semiotics (Indianapolis UP, 1990)
一方で、分析哲学系統の言語哲学(さらには言語学)でも、主に言語記号に限定したかたちではあるが、似たような話はされている。
それらの分野の中で提案されている記号の一般理論はさまざまある。この授業では「記号/内容」だけのシンプルな二項図式を採用しているが、別のタイプの二項図式もあれば、三項図式もある。
記号の理論は、とりわけ論者間での用語法が錯綜しやすい。たとえば、この授業で言う意味での記号/内容のセットを「記号」と呼び、記号と内容をそれぞれ「表現」「内容」と呼ぶ用語法もある。これは何か理論上の対立があるということではなく言葉づかいが違うというだけの話だが、概念(用語の意味)を十分に整理して理解できていないと混乱しやすいので注意。
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年
ビデオゲームの画面(※)の記号としての働きを記述するための理論
松永『ビデオゲームの美学』(とくに4~5章):
ユールの「ルール/フィクション」の区別を前提として、それら2つの側面をあらわす記号という観点から、ビデオゲームの画面の働きを考える理論。
ようするに、ひとつの画面(記号のレベル)に対して、2つの意味(内容のレベル)があるという発想。
記号および二種類の内容があるので、三項図式になる。
※ わかりやすさの都合上、画面(視覚的記号の媒体)に限定しているが、実際には音声媒体(や場合によっては触覚媒体)についても同様のことが言える。
ビデオゲームの画面(※)の記号としての働きを記述するための理論
松永『ビデオゲームの美学』(とくに4~5章):
ユールの「ルール/フィクション」の区別を前提として、それら2つの側面をあらわす記号という観点から、ビデオゲームの画面の働きを考える理論。
ユールの理論に対して松永が付け加えたこと:
「ルール」はややこしいので「ゲームメカニクス」と呼ぶべき。
ビデオゲームにおけるルール=ゲームメカニクスは、それ自体はプレイヤーに直接見えない。言わばブラックボックスの中身である。ビデオゲームの画面は、そのような直接に見えないゲームメカニクスをあらわす記号としての側面を部分的に持っている。
同時に、ビデオゲームの画面は、フィクションのとしての側面、つまり虚構世界をあらわす(と同時に作り出す)記号としての側面を部分的に持っている。
※ わかりやすさの都合上、画面(視覚的記号の媒体)に限定しているが、実際には音声媒体(や場合によっては触覚媒体)についても同様のことが言える。
続き
松永の理論のポイント①:
ようするに、ひとつの画面(記号のレベル)に対して、2つの意味(内容のレベル)があるという発想。
記号および二種類の内容があるわけなので、三項図式になる。
以下の資料ベースで説明する。
松永伸司「『ビデオゲームの美学』解説」、ワークショップ「ビデオゲームの世界はどのように作られているのか?」大阪成蹊大学、2019年
https://drive.google.com/file/d/1LbwCxyUyzy7nBySzw7HDYB8bTKI0EsnQ/ view?usp=sharing
2つの意味の区別がわかりやすい例:Baba Is You
2つの内容の相互作用(とくに8章)
松永の理論のポイント②:
2つの内容、つまりゲームメカニクスについての内容(長いので以下「G内容」と略)と虚構世界についての内容(以下「F内容」)は、一方がもう一方をあらわす関係になることがしばしばある。
相互作用のよくある2つのパターン
類比的推論:F内容をもとにG内容が把握されるケース。
シミュレーション:G内容をもとにF内容が想像されるケース。
類比的推論
簡単に言えば、F内容からゲームメカニクスのあり方が推測される(G内容が生じる)プロセスのこと。つまり、F内容がG内容の記号になる。
この推測は、虚構世界とゲームメカニクスの両者が構造的に似ているという前提のもとでなされる(類比的推論=類推=アナロジー)。
具体例:
F内容上〈階段がある〉ということから、そこに行けばG内容上〈移動できる〉という類推が自然になされるケース。
F内容上〈ドアがある〉ということから、そこに行けばG内容上〈開けられる〉や〈中に入ることができる〉という類推が自然になされるケース。もちろん、たんに推測されるだけなので実際行ってみたら入れないということもある。
類比的推論の例:『ドラゴンクエスト』の階段
シミュレーション
シミュレーション一般の説明:
記号と内容の関係のあり方のひとつ。
(ふつう入出力を備えた)動的なモデルによって、それと構造的に似ているものとして何かがあらわされる。わかりやすく言うと、そのモデルが何かに見立てられる。この見立てがシミュレーションの本質。
ゲームではないシミュレーションの例:
天気予報、天体運行のシミュレーション、交通渋滞のシミュレーション、兵棋演習、ドライビングシミュレータ、etc.
続き
シミュレーション概念について具体例ベースで説明している資料:
松永伸司「手応えのあるフィクション:シミュレーションによるフィクションの特殊性」、シンポジウム「現代フィクションの可能性」東京大学、2019年
https://drive.google.com/file/d/11pUa3mLFMV4U2h19kfXmFMlPfMq1 exJD/view?usp=sharing
続き
ビデオゲームの場合、ゲームメカニクス(実体はコンピュータによって実現されている状態機械)がシミュレーションのためのモデルとしても使われることが大半である。
加えて、ふつうは、現実のすでにある現象や未来の状況をシミュレートするというより、まさにそのシミュレーションを通じて新しい架空の世界を作り出す(※)。つまり、ゲームメカニクスが虚構世界の構造として見立てられる。
そういうわけで、一般にビデオゲームにおけるシミュレーションでは、G内容(※)がF内容をあらわす記号として機能する。
※ ある種のストラテジーゲームのように史実に近い題材を取り上げているかどうかという話は、ここでは関係ない。歴史を題材にした小説作品などと同じく、それが史実に近かろうが遠かろうがフィクションとしての性格は変わらないからである。一方で、歴史の教科書と同じように歴史教育のために作られたシミュレーションであれば、それは(史実を正確にあらわしていようがいまいが)フィクションではない。
※ 直接にはG内容というよりはゲームメカニクスそのものがシミュレーションにおけるモデルになると考えたほうが自然だが、ビデオゲームの場合ゲームメカニクスは定義上G内容を通じてのみ知られるものなので、実質的にはG内容がF内容を生成すると言ってよいことになる。
続き
ビデオゲームのシミュレーションの具体例:
SimCityにおける電力や原子力発電所についての一連のルールが、その虚構世界のあり方を想像するために使われる。
プレイヤーは、必ずしも映像から直接に世界を想像しているのではなく、映像その他の情報をもとにゲームメカニクスを理解したうえで、そのような仕組みを持つものとしてその世界を想像している。
RPGのキャラクターもまた、たんにグラフィックやテキストを通してどのようなキャラかが想像されるだけでなく、その能力値などから想像される面が少なからずある。
見た目上とくにそれとはわからないが、腕力の値がやたら高いキャラ、ストーリー上目立って言及されるわけではないが、ぜんぜん成長しないキャラ、など。
シミュレーションの例:SimCityの原発
シミュレーションの例:能力値によるキャラクター描写
続き
もちろん、グラフィックやテキストによるF内容と、シミュレーションによるF内容がおおむね一致していることもよくある(というか、モダンなビデオゲーム作品の多くの部分は、普通そうなるように作ってある)。
ただ細かいところを見れば、いくらでもずれが見つかる。
たとえば、グラフィックによって描かれているオブジェクトの形状(グラフィックによるF内容)と、ゲームメカニクス上の衝突判定(コリジョン)の範囲(シミュレーションによるF内容)が異なる場合。
グラフィックのF内容上は色が異なるオブジェクトだが、その色の違いに対応するゲームメカニクス上の区別がない(つまり色がシミュレートされていない)場合。
車を強盗する際に、グラフィックのF内容上ではキャラクターはいろいろなことをやっているが、ゲームメカニクス上の行為としてはボタンをひとつ押すだけという場合。
補論:G内容はどうやって特定されるのか
いろいろなパターンがある(『ビデオゲームの美学』p. 216):
ルールブックやゲームプレイ内のテキストなどでG内容が直接に明記されているケース(「このアイテムはこれこれの効果がある」など)。
ゲームジャンルの慣習についての知識によって、記号とG内容の結びつきがあらかじめ把握されているケース(RPGにおいて宝箱の記号があれば、それはG内容として〈中にアイテムが入っている〉をあらわす、など)。
実際のゲームプレイ上のインタラクション(試行錯誤)を通じて、ゲームメカニクス上できること/できないことが把握されていくケース(いろいろ試した結果〈まるいドアには入れる〉が〈四角いドアには入れない〉ことがわかった、など)。
F内容にもとづいた類比的推論によってG内容が推測されるケース。
来週の予定
「不自然さ」の構造を記号の理論によって説明する。
逆に、ある種の「自然さ」あるいは「リアリズム」がどういう事態なのかについても、絵のリアリズムについての理論を参考にしながら説明する。
あまりシラバス通りに進んでいませんが、できるだけ応用が利きやすい話をピックアップしていく予定です。
スライド最後
勉強用の文献
ルール/フィクション、記号の理論について
イェスパー・ユール『ハーフリアル』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年(4章以降)
ルール/フィクション、記号の理論について
イェスパー・ユール『ハーフリアル』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年(4章以降)