メディア文化学特殊講義/美学美術史学特殊講義
月曜4限/第9回
松永伸司
2022.06.20
1. 質問への回答など
2. 画像のリアリズム
3. ビデオゲームのリアリズム
コメントの紹介と回答
『ぷよぷよ』などを例に挙げられていた「ゲームメカニクスがシミュレーションのためのモデルとして使われない例」について聞いていて考えたのですが、シミュレーションは結局個人の想像力によって決まる主観的なものではないですか。この授業では個別にどう区分できるかではなく理論を理解できるかが肝要ということは分かっているのですが、究極的にはそういう理解であっているか気になります。
おおむねその方向の理解で問題ないです(シミュレーションもまた作品解釈の一種なので)。
ただし、その種の感想を持つ前に考えていただきたいのは、そこでいう「主観的」(および、おそらくその対立概念として想定されている「客観的」)がどういうことなのかということです。個人的には「主観的/客観的」は無駄に多義的なので明確な概念規定がないかぎりは使わない方がよい言葉だと思いますし、明確な概念規定があるならその規定のほうを言えば済む(なので「主観的/客観的」なる語を持ち出す必要がない)と考えています。卒論を書く学生さんなどにもそうすることをおすすめしています。
全体 👉 https://scrapbox.io/pikopiko2022/%E7%AC%AC8%E5%9B%9E%E3%81%AEQ&A
ビデオゲームのへんてこな現象の例としていくつか挙げられていましたが、「現実と照らし合わせて不合理な部分」ではなく、「ビデオゲームだということを考えてもおかしい部分」という意味で合っていますか。また、へんてこな現象について説明することの意義は何でしょうか。
前半はその理解でよいです。後半はクリティカルな疑問ですね。いくつかの答え方があるので並べます。
a. 内在的な意義〔…〕
b. 日常的・批評的な言説の文脈との接続〔…〕
c. 研究の文脈との接続〔…〕
d. ナラデハの解明〔…〕
e. その他の表現媒体への応用可能性〔…〕
f. 開発への寄与〔…〕
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シミュレーションについての話が難しかったです。現実世界では不自然なことがゲームの世界では当たり前と受け止められている、その差においてシミュレーションの成立が確認できるという解釈であっていますか?〔…〕
〔…〕少し違います。差があるからシミュレーションが成立するということではなく、シミュレーションは成立しているのだが(プレイヤーもそれをわかっているはずなのだが)差があまりないとシミュレーションが成立していることを明確に意識しづらいということです。〔…〕
疑問のポイントは、「シミュレーションが認知的なプロセスだということなら、それが意識されないようになればもはやそのプロセスは生じていないのも同然では」ということかと思われますが、ある主体のうちに認知的なプロセスが生じているかどうかと、その人がそのプロセスを明確に意識しているかどうか(それに注意を向けているかどうか)は区別できる事柄です。このへんは認知科学(認知心理学や知覚の哲学)でよく出てくる話です。
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〔…〕授業中では原子力発電所が例に出されて上記の働きが説明されていましたが、これがなされるのは大抵開発段階であり、プレイヤーがゲームを遊ぶ際に行うのは原子力発電所のグラフィックやテキストなどのG内容からF内容を推定するという類比的推論だと考えます。これについて、プレイヤーがゲームにおいてシミュレーションを行う状況というのがなかなか想像できませんでした。〔…〕
〔…〕そもそも抽象的なゲームメカニクスについてプレイヤーは認識していないだろうという趣旨の疑問であれば、〔…〕「明確に自覚していないとしても認知プロセスのうちにそれが含まれていると言っていいはずだ」とお答えすることになりますね。あまり比喩を使いたくはないのですが、たとえば算数の設問で具体的な状況が描かれるケース(「1ついくらのりんごが何個でどうの」「太郎くんは時速何キロでどうの」みたいなやつ)は似た話になると思います。問題文があらわしている具体的な状況がF内容に相当し、計算式やそれが表現する抽象的な数学的構造がゲームメカニクスに相当します。意識的にであれ無意識的にであれ、その抽象的な構造を何か具体的な対象や状況に見立てているのであれば(普通それは問題文が示す状況でしょうが、それ以外の状況の場合もあるかもしれません)、それがシミュレーションということになります。〔…〕
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〔…〕授業中では原子力発電所が例に出されて上記の働きが説明されていましたが、これがなされるのは大抵開発段階であり、プレイヤーがゲームを遊ぶ際に行うのは原子力発電所のグラフィックやテキストなどのG内容からF内容を推定するという類比的推論だと考えます。これについて、プレイヤーがゲームにおいてシミュレーションを行う状況というのがなかなか想像できませんでした。〔…〕
〔…〕そもそも抽象的なゲームメカニクスについてプレイヤーは認識していないだろうという趣旨の疑問であれば、〔…〕「明確に自覚していないとしても認知プロセスのうちにそれが含まれていると言っていいはずだ」とお答えすることになりますね。あまり比喩を使いたくはないのですが、たとえば算数の設問で具体的な状況が描かれるケース(「1ついくらのりんごが何個でどうの」「太郎くんは時速何キロでどうの」みたいなやつ)は似た話になると思います。問題文があらわしている具体的な状況がF内容に相当し、計算式やそれが表現する抽象的な数学的構造がゲームメカニクスに相当します。意識的にであれ無意識的にであれ、その抽象的な構造を何か具体的な対象や状況に見立てているのであれば(普通それは問題文が示す状況でしょうが、それ以外の状況の場合もあるかもしれません)、それがシミュレーションということになります。〔…〕
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透明な壁に関するF内容ベースの説明とG内容ベースの説明について、マリオの命にも似たような説明ができるとのことだったが、F内容ベースの説明に関して、直接的にマリオの命が一つである/不死身ではない、と表すものは、何かあるのでしょうか。常識的に考えてそのほうが自然だと考えるのが適切でしょうか。
答えてくれているコメントがあります。
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ビデオゲームの透明な壁現象についての説明を理解することができた。同じように開かないドアやマリオの命も考えることができるということであった。前者はG内容ベースであれば、ドアのグラフィックというF内容から類比的推論によって生まれる<開けられる>というG内容と、インタラクションによって得られる<開けられない>というG内容との齟齬で説明できるはずである。しかしながら、マリオの命をこれでどう説明できるのかがよく分からなかった。G内容ベースであれば、ゲームメカニクスとしての<3機>というG内容はわかるが、それと齟齬を生む別系統のG内容が分からなかった。
今回の授業をうけて、メタ視点を取り入れているゲームはビデオゲーム内の奇妙さをF内容視点からうまく解釈しようとした結果なのではないかと感じた。(例えばUNDERTALEなど、虚構世界自体がビデオゲームであるという設定であればビデオゲーム特有の奇妙さが虚構世界に存在するとしても受け入れられるのではないだろうか。)
Undertaleがそれを目指しているかはともかく、いわゆる「ゲーム内ゲーム」(虚構世界内でビデオゲームをプレイしている設定)によってF内容上の不整合を少なくとも部分的に解消しようとするテクニックがあるというのはその通りです。『Moon』とかが早い例ですね。その手法でうまく解消できているのかどうかはよくわかりませんが。
G内容がF内容を表すシミュレーションの例で、シムシティの原子力発電所の場合は、現実の原子力発電所とゲーム内の原子力発電所を同一視するから混乱が起きるのでしょうか。「水と技術者がいれば稼働する、現実世界の原子力発電所に似ていが異なる、シムシティの世界における『原子力発電所』」とプレイヤーが解釈するということですかね。グラフィックやテキストがふつうそれ単独ですでにF内容を持ってるという話でしたが、ならシムシティの原子力の場合「これが原子力発電所か。あれ、でもプレイしてみて分かったけど水と技術者さえいればこの原子力発電所は稼働するぞ。なるほどシムシティ世界の原子力発電所はこういうものなのか」という風にF→G→Fという流れになるのかなとも感じました。
ややこしいかつ本質的な話なので別ページで説明します。
リアリズム一般について
描写の哲学の議論の紹介
リアリズム一般についての前提
リアリズム(写実性):
フィクション(あるいはより広く表象芸術作品一般)が持つ、本当らしさ、もっともらしさ、再現の忠実さなどのこと。
古代からある伝統的な芸術観(おおむね18世紀後半までは支配的な考え方)では、芸術は自然(あるいは何らかの意味での現実)を模倣するべきものだとされてきた(この模倣は「ミメーシス」とも呼ばれる)。結果的に、リアリズムがひとつの芸術的な評価基準として受け入れられてきた面がある。
この手の価値観は、多くの芸術分野ではすでに主流ではなくなっているが(少なくとも素朴な価値観と見なされる)、ビデオゲーム文化ではいまだに根強い。
この授業では、リアリズムをめぐる規範的な問題(リアリスティックであることはよいことなのかどうか)は取り上げない。
リアリズムを指すのに「リアル/リアリティ」という言葉を使うのは和製英語であり、無用の混乱を引き起こすのでこの授業では使わない。
続き
重要な注意点
文学や絵画において19世紀に生じる芸術運動あるいは様式としての「写実主義(realism)」は、前ページの意味でのリアリズムとは(無関係ではないものの)基本的に別物と考えたほうがよい。
この芸術運動あるいは様式としての写実主義は、理想化を排して身近な現実を描くべしというところにポイントがある。つまり、どちらかというと題材選択のレベルの話である。
いま問題にしている意味でのリアリズムは、様式としてはむしろ「自然主義(naturalism)」と呼ばれることが多いかもしれない。
毎度の注意ですが、同じ言葉や似た言葉が文脈によって異なる意味を持って使われることは(とくに芸術関係の話題だと)非常に頻繁にあるので、単純な多義性によって足をすくわれないように意識することをおすすめします。
ビデオゲームのリアリズム?
ビデオゲームには、いくつかのレベルで異なる種類のリアリズムがあると考えているが、ひとまず一番わかりやすいグラフィックのリアリズムを手掛かりにする。
グラフィックのリアリズムは、ようするに画像(映像含む)のリアリズムなので、画像についての議論がそのまま応用できる(※)。
※ 3DCGやピクセルアート特有の様式(絵の感じ)は当然あるが、そもそも描写の哲学(次ページ参照)が問題にしているのは、さまざまな様式を包摂する画像一般の性格であり、そこには3DCGやピクセルアートも含まれる。独特の様式だからと言って、ビデオゲームのグラフィックに関してのみ何か特殊なリアリズムの基準があると考えるべき理由はない。
『ファイナルファンタジーIII』(1990)
『ファイナルファンタジーVI』(1994)
『ファイナルファンタジーX-2』(2003)
『ファイナルファンタジーXV』(2016)
描写の哲学
「ある画像(picture)がリアリスティックであるとはどういうことなのか」という問題については、描写の哲学の中で一定の議論の蓄積がある。
描写の哲学については、去年の授業のテーマだったので説明を省略する。
去年の授業資料まとめサイトへのリンクをPandAのトップページに掲載しておいたので、関心がある方はそちらから飛んでください(URLは表に出さないでください)。
ここでは、ジョン・カルヴィッキによる画像のリアリズムの基準についての議論をベースに説明する。
文献:John Kulvicki, Images (New York: Routledge, 2014), chap. 6.
カルヴィッキの考え
画像のリアリズムの基準をどう考えるかについては、いまだに諸説あってとくに定説がないのが現状だが、カルヴィッキにしたがえば、ひとまず以下の3つの観点がある。
正確さ(accuracy)
情報量(informativeness)
典型性(exemplarity)
いろいろなりんごの絵
Sources: https://www.youtube.com/watch?v=b_K79wMRN0M; http://sannno-hinata.blogspot.com/2014/05/blog-post_17.html; https://ameblo.jp/csffe/entry-11682565197.html; http://www8.plala.or.jp/ottama/2003_autumn_ringo.html; https://ameblo.jp/happydayshappyroses/entry-12561777581.html
正確さ
対象をより正確に描いている絵のほうが、よりリアリスティックであるという基準。
たとえば、りんごをより正確に描いている絵のほうが、よりリアリスティックなりんごの絵である。
これは一見わかりやすい基準だが、いろいろ条件がある。
ここでの「正確さ」は、ざっくりと言えば絵と対象の類似度だが、類似のポイントは、基本的に視覚的側面にかぎられる。
類似の判断に使われるのが、その対象の実際の姿というよりは、判断者が標準的に想定するその対象の姿であることがしばしばある。つまり、実際に存在する特定のりんごというよりは、判断者が想定するりんご(たいてい理想化されている)に似ているかどうかが判断材料になることがある。
非実在の対象(たとえばドラゴン)を描いた絵についても正確さの判断は可能なはずだが、これは実在の対応物があるパーツごと(たとえばドラゴンの身体部位ごと)に判断されているか、あるいは標準的に想定される対象の姿(ふつう想定されるドラゴンの姿)に照らして判断されているかのいずれかとして説明できる。
情報量
対象をより情報量豊かに(つまり詳細に)描いている絵のほうが、よりリアリスティックであるという基準。
たとえば、りんごをより詳細に描いている絵のほうが、よりリアリスティックなりんごの絵である。
これも一見わかりやすい基準だが、いろいろ条件がある。
正確さをまったく伴っていないと、どれだけ詳細に描き込んだところで必ずしもリアリスティックにならない。つまり、情報量は正確さと組み合わさることで十分な効果を発揮する。
その対象の把握にとって重要な特徴を情報量豊かに描く必要がある。どうでもいい特徴だけを詳細に描き込んだところでたいしてリアリスティックにはならない。
典型性
より絵らしい絵のほうがリアリスティックであるという基準。
この基準は、基本的に、その社会の中でどういうタイプの絵が絵の典型と見なされているかという慣習(慣れ親しみ)の問題である。
たとえば、フルカラーの絵のほうがモノクロの絵よりも典型的・模範的な絵だとみなされているかぎりで、前者のほうがよりリアリスティックになる。
フルカラー写真が絵の模範と見なされているという考え方もある。いわゆる「フォトリアリスティック」という判断は、そういう基準が背後にあると考えると理解しやすい。
この基準は、マイナス方向に働くケースのほうがわかりやすい。つまり、典型的でない絵は、それが十分に正確で情報量豊かであったとしても、リアリスティックにならない(違和感を感じる)ということである。
リアリズムの判断
まとめ
正確さ:対象をより正確に描いているかどうか。
情報量:対象をより詳細に描いているかどうか。
典型性:より絵らしい絵であるかどうか。
ある絵がリアリスティックかどうかは、これらの基準ごとの評価の総和で決まるようなものではなく、もっと総合的に判断されていると思われる。いずれにしても、単純な加点方式による判断ではない。
おまけ:様式化
様式化(stylization)(いわゆるデフォルメ)は、リアリズムの反対概念と考えられることがよくある。
様式化は、主に歪曲(distortion)と単純化(simplification)の2点によって特徴づけられるが、それぞれ正確さと情報量が低い状態として理解できる。
歪曲:対象の想定される姿を正確に描いていない(誇張も含む)。
単純化:詳細を描いていない。
一方で、様式化と典型性の関係はけっこう微妙である。
様式化された絵は、ふつうはある意味で典型的でもある(パターン化された表現がまさに「様式」と呼ばれるわけなので)。
ある絵がより典型的な絵であることは、それが様式化されているかどうかにとって直接には関係ないと言っていいかもしれない。
グラフィックのリアリズム
シミュレーションのリアリズム
フィクションのリアリズム
3つのリアリズム
ビデオゲームのリアリズムには、少なくとも以下の3つの観点があるように思われる。
グラフィックのリアリズム
シミュレーションのリアリズム
フィクションのリアリズム
グラフィックのリアリズム
グラフィックのリアリズムについては、画像のリアリズムの基準をほぼそのまま適用できる。
正確さ:想定される対象の視覚的特徴を正確に描いているかどうか。
情報量:対象の把握にとって重要な視覚的特徴を細かく描いているかどうか。
典型性:
絵らしい絵であるかどうか。
ビデオゲームのグラフィックに特有の「らしさ」が考えられるという点で、絵一般の典型性とはちょっと違う面もあるかもしれない。
正確さについての注意
ビデオゲームのグラフィックが描くのは、基本的に虚構世界上のキャラクターや事物(多くが非実在の対象)だが、ここで正確さの判断について考えておくべき点がある。
グラフィックの正確さは、描かれる虚構的対象(たとえばマリオ)がどのような姿をしているかが、当のグラフィックとは別にあらかじめある程度想定されているという前提のもとで、グラフィックによって描かれた内容(実際に画面に表象されているマリオの姿)が、その想定された姿にどれだけ近いかという観点から判断される。
逆に言えば、もしその虚構的対象の姿があらかじめまったく想定されていないなら、グラフィックの正確さの判断ができない(あるいは、グラフィックの内容がそのままその対象の姿であると考えれば、どんなグラフィックでもつねに正確だということになる)。
想定された姿と描かれた姿
整理するために以下の2つの理論的概念を導入しておく。
想定された姿:当のグラフィックとは別に、あらかじめ想定されている虚構的対象の姿のこと。
描かれた姿:グラフィックの内容として実際に描かれている(見ることのできる)姿のこと。
これらの概念を使えば、グラフィックのリアリズムにおける正確さの基準は、次のように言えることになる。
正確さ:想定された姿と描かれた姿がどれだけ似ているか。
以下、わかりやすいようにキャラクターのグラフィックを例にするが、キャラクター以外(たとえば物や風景)のグラフィックについても同じことが言える。
『ファイナルファンタジーIII』(1990)
『ファイナルファンタジーVI』(1994)
『ファイナルファンタジーX-2』(2003)
『ファイナルファンタジーXV』(2016)
想定された姿の特定方法のパターン
あるキャラクターの姿について、「当のグラフィックとは別に、あらかじめ想定する」ことはどのようにして可能なのか。これはいくつかの方法がありえる。
①当のグラフィック以外の、すでに出てきたグラフィック(もしあれば)を参考にする。これにはパッケージのイラストレーションなども含まれる。
②キャラクターの姿についてのテキストによる記述(もしあれば)を参考にする。
③現実についての常識的な知識や、当の作品が属するジャンルのお約束にもとづいて、キャラクターの姿を想像する。これは、フィクション作品に明示的に描かれていない内容を受容者が補完する際の一般的な解釈原理である。
当然ながら、虚構的対象の想定された姿が明確に定まるケースはほとんどない(これは実写作品を除くフィクション作品一般に言える)。とはいえ、まったく何も想定されないこともまたほとんどない。
想定された姿がそれなりにあるかぎりで、正確さの判断は可能である。
グラフィック
描く
描かれた姿
想定された姿
既出のグラフィックによる姿の描写
パッケージアートによる姿の描写
テキストによる姿の記述
現実についての常識的な知識
ジャンルのお約束についての知識
Etc.
想定の材料
正確さの判断
シミュレーションのリアリズム
グラフィックのリアリズムの基準をほぼそのまま応用するかたちで考えられる。
正確さ:
ゲームメカニクスが、虚構的対象(キャラクター、物、世界全体、etc.)の想定されたあり方を正確にシミュレートしているかどうか。
ただし、ゲームメカニクスとの類似度が判断されるのは、想定された対象の視覚的特徴(姿)ではなく、基本的にその挙動や機能である。
情報量:ゲームメカニクスが、対象の把握にとって重要な特徴を情報量豊かにシミュレートしているかどうか。
典型性:
当のジャンルらしいシミュレーションであるかどうか。
たとえば、RPGに典型的なルールセット(HP、経験値、etc.)によるシミュレーションは、そうでないシミュレーションよりもある意味で「自然」である。
シミュレーションの正確さ
グラフィックの正確さの判断の場合と同様に、シミュレーションの正確さの判断もまた、〈あらかじめ想定された内容〉と〈実際にあらわされた内容〉のあいだの類似度の判断になる。
想定されたあり方:当のシミュレーションとは別に、あらかじめ想定されている虚構的対象のあり方(とくにその挙動や機能)のこと。
シミュレートされたあり方:シミュレーションの内容として実際にあらわされている対象のあり方のこと。
グラフィックの場合と同様に、この虚構的対象の想定されたあり方の特定方法にはいくつかのパターンがありえる。
ゲームメカニクス
シミュレートする
シミュレートされたあり方
想定された
あり方
グラフィックによる挙動の描写
テキストによる挙動の記述
現実についての常識的な知識
ジャンルのお約束についての知識
Etc.
想定の材料
正確さの判断
フィクションのリアリズム
簡単に言えば、フィクション作品がどれだけ現実や史実に則した内容を描いているかという基準。ビデオゲームにかぎらず、フィクション一般に言える。
グラフィックのリアリズムやシミュレーションのリアリズムにならって、一応は3つの観点に分解できるが、フィクションのリアリズムの判断では、基本的に正確さがもっとも重視されると思われる。
正確さ:グラフィック、テキスト、ゲームメカニクスなどから得られるF内容の全体(話の筋や虚構世界のあり方)が、現実や史実のあり方を正確に再現しているかどうか。
情報量:F内容の全体が、現実や史実の再現にとって重要なかぎりで、詳細に作られているどうか。
典型性:当のジャンルらしいフィクションであるかどうか。
フィクションの正確さ
グラフィックの正確さやシミュレーションの正確さは、あらかじめ想定された内容と実際にあらわされた内容の比較によって判断されるものだった。
一方、フィクションの正確さは、実際の現実(または受容者の理解の中での現実)と、虚構世界のあり方の比較によって判断される。
この虚構世界のあり方は、グラフィックやテキストやシミュレーションを通してあらわされる個々のF内容を調整してまとめあげた全体的なF内容(出来事、キャラクター、物、地形、状況、法則など、その外見も挙動も含めた虚構世界の全体)である。
その意味で、フィクションの正確さの判断は、グラフィックの正確さやシミュレーションの正確さの判断よりも、より高次のレベルに位置づけられると言えるかもしれない。
ゲームメカニクス
シミュレートする
虚構世界
全体的なF内容
現実
あるいは
想定された現実
正確さの判断
調整・統合
グラフィック
テキスト
想定された
F内容
シミュレート
されたF内容
描かれたF内容
描く
書かれたF内容
記述する
来週の予定
美術史の様式論について。
様式論の観点からタイルマッチングパズルの歴史を考える。
スライド最後