フィクショナルキャラクターの理論を例に
系共通科目(メディア文化学)講義A
月曜4限/第3回
松永伸司
2024.04.22
SlidoのリンクはScrapboxにあります。
前回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
前回のやり残し①:「ちゃんとした」理論と「だめな」理論の基準についての考え方を理解する。
前回のやり残し②:理論にどんな有益さ(うれしさ)があるのかを大まかに理解する。
フィクショナルキャラクターについての既存の理論を例にして理論的研究の具体的なイメージを得る。
1. 理論の評価基準と理論のうれしさ
2. フィクショナルキャラクターの理論
前回授業の後半のおさらい
理論の評価基準とその多様性
理論のうれしさ
大事なポイントだけ抜き出すと
この授業で扱う意味での理論とは、物事を理解・説明するためのフレームワークのこと。
その実態は、複数の概念が結びついた概念のネットワークである。
個々の概念の把握・伝達には、必ずしも定義(必要十分条件の提示)は必要ない。例示や特徴づけだけで、概念を十分把握できることがよくある。
この意味での理論(=物事の理解・説明のフレームワーク)には、専門家が作る「学術的」な理論だけでなく、日常的に人々が使う民間理論も含まれる。
リアクションペーパーの引用
今回の説明では、「普段私たちが概念を伝達するときは定義を使ってないじゃん」というところから「ある概念を把握・伝達するのに定義(必要十分条件の提示)はふつう必要ない」と導いているように見えます。
しかし、私たちの日常的な概念把握が定義によって行われていないからといって、学問や理論においても同じとは限らないのではないでしょうか。むしろ、日常においては概念が「ああいうやつ」と曖昧に把握されているからこそ学問においてはキッチリしなければ、という主張だって可能に思えます。
日常生活においての概念把握は個々人によってブレがあります。それと同じようなやり方で学問的な議論をするというのは、なんだか曖昧で頼りないように感じました。
民間理論と「学術的」な理論の違い
とくに専門的な研究コミュニティで検討されることなしに流通している民間理論と、「学術的」「科学的」な理論の違いはどこにあるのか。どちらも、概念のネットワークという点では違わない。
民間理論はうさんくさい、「学術的」な理論は信頼に足る、みたいなイメージがあるかもしれない。
しかし、そこで言う「学術的」とはどういうことなのか。「客観的」ということなのか?
実際のところ、両者を区別するはっきりした基準はないし、違いも程度の問題である。とはいえ、ある理論が「ちゃんとしている」かどうかを判断するにあたって、いくつか気にするべき指標はある。
説明力:観測事実を無理なく説明できるどうか。
説明の一般性:個別のケースだけでなく、似たようなケースに広く当てはまるかどうか(有効性の範囲が広いかどうか)。
検証の度合い:専門家集団による批判的な吟味を経ているどうか。
体系性:他の諸理論との整合性があるかどうか。孤立しているほど概念ネットワークとしては脆弱になりがち。
厳密さ:概念が明確に定義されているかどうか(概念適用のルールがはっきりしているかどうか)。
方法の明確さ:決まった手順に沿ってやれば誰でも同じことができるかどうか(属人的でないかどうか)。
注意点
これらの指標のうちのどれが重視されるかは分野の性格やその都度の文脈によるので、一概にどれが一番大事とは言えない。
「学術的」であることの指標として「客観的」という言い方を持ち出したがる人は多いが、その内実をはっきりさせないかぎりは不毛な言葉なので、できるだけ使わないほうがよい。
実際、「客観性」という語はいろいろな意味で使われる(前頁の指標のいくつかが「客観性」と呼ばれる場合もあるだろう)。そのうちのどの意味での「客観性」が大事なのかを限定しないと意味がないし、どの意味での「客観性」であるのかを言えるのであれば、最初から「客観性」などと言わずにその意味をそのまま言えばいいだけである。
想定される問い
「評価基準はその都度の文脈によって変わる」と言うが、ではどういう文脈ならどういう基準で理論の良し悪しが評価されるのか?
答え
結局のところ、理論の評価基準は、その理論(理解・説明のフレームワーク)を使って当の文脈で何がしたいのかという理論使用者の目的によって決まる(これは道具の評価について一般的に言えること)。
何かと何かにきっちりした線引きをしたい(何らかの理由で)なら、当の概念が厳密に定義されていることが「よい理論」の基準になるだろう。
既存の理論との接続を重視する(何らかの理由で)なら、体系性があることが「よい理論」の基準になるだろう。
特別な能力がなくても理論を運用できることが重要(何らかの理由で)なら、理論適用の手順が明確であることが「よい理論」の基準になるだろう。
etc.
当の理論を何のために使うのかをつねに気にしましょう。
理論的研究をしてどんないいことがあるのか
理論的研究は、日常的に使われる概念群(民間理論)よりも、何らかの意味でより役立つ概念群を提供することを目指していると考えるのがよい。
「何らかの意味でより役立つ」の内実は、おそらくいろいろある。
典型的な役立ち方は、説明や予測に役立つというものだろう。
哲学では、一見したところの謎(パラドックス)を解消できるという役立ち方もよくある。
それ以外にも、思考の整理やクリエイティブな発想につながるという場合もあるだろうし、単純に知的好奇心を満たしてくれるという役立ち方もあるだろう。
理論と解像度
一般的に言えることとして、専門的な理論を知ったほうが、日常的なものの見方よりも解像度がはるかに上がるという傾向はある。ようするに、物事をより細やかでクリアに見れるようになる。
もちろん、何かについての解像度が上がることを「役立つ」と感じるかどうか、そなることが「うれしい」かどうかは人によるだろうし、その対象への興味関心の度合いによっても大きく変わると思われる。
最終的には、文化の研究におけるいろいろな理論や概念にそれぞれどんなうれしさがあるのか(あるいはないのか)は、個々人で判断してもらうしかない。
理論との付き合い方
理論(あるいはその構成要素である個々の概念)は、物事を見るためのひとつの道具、ひとつのメガネでしかない。それをまるまる信じて使うのも、自分の目的に沿わない(あるいは単純に理解できない)という理由で否定するのも、理論が何であるかについて勘違いしている。
ちゃんとした研究分野内である程度認められている理論や概念は、それなりの検討と批判を経て生き残っている道具のはずなので、そのかぎりで尊重したほうがよいが、別に絶対的なものでもなんでもない。
自分の目的にとって使えそうな道具なら吟味しながら使う、不十分に思えるなら少し改変する、使えなさそうならひとまず無視する、というのが、文化の研究をするうえでの無理のない理論との付き合い方である。
ちょっと休み
フィクショナルキャラクターの例示と特徴づけ
伊藤の〈キャラ/キャラクター〉
高田の議論:キャラクターの外見をどう考えるか
松永の〈Pキャラクター/Dキャラクター〉
岩下による理論の応用
理論的研究の具体例
理論的研究がどんなものか、またそのうれしさはどこにあるのかを具体的にイメージしてもらうために、フィクショナルキャラクター(以下煩雑なので「キャラクター」と省略)についての既存の理論的研究をいくつか紹介する。
以下で挙げる文献
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』(2005年)
高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」(2015年)
松永伸司「キャラクタは重なり合う」(2016年)
岩下朋世『キャラがリアルになるとき』(2020年)
『美学の事典』
「キャラクター」の項から引用
※定義ではない点に注意!
文献の概要
書誌情報:
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』(NTT出版、2005年)
いわゆるマンガ表現論の重要著作。
第3章で有名な〈キャラ/キャラクター〉の概念的な区別が提示されている。ただ、概念の特徴づけや適用にぶれや非整合性があり、一貫した解釈が難しい。
以下の引用はすべて同書の第3章から。
引用:〈キャラクター〉についての記述
マンガには「登場人物」がいる。設定上、あるいは外観上人間ではなかったとしても、やはり「登場人物」として扱いうる。〔中略〕1970年代に小池一夫がそういって以降、「キャラクターを立てる」という言い方はマンガ業界や読者の間で普通に用いられている。〔中略〕つまり小池にとって「キャラクターを立てる」ことは、「魅力的な登場人物」として読者に認識させるということとほぼ等しい。
〔中略〕つまり、小池のいう「キャラクターを立てる」とは、すなわち読者である私たちと同様に「身体を持った人間」が、「物語空間の背後にも」「永続して存在する」ことを想像させること、と定式化できる。
いいかえれば、私たちが「キャラクター」と「登場人物」を等しいものと見なしうるには、この要件が揃っていることが前提条件となるのである。その際には、必ず何らかの形で「キャラクター」が「人格」を持った「身体」の表象であることが要請される。
引用:〈キャラ〉についての記述
「キャラクター」は「登場人物」と等価な意味として扱いうるが、「キャラ」はそうではない。そして「絵」でもない。〔中略〕「キャラ」とは「キャラクター」に先立って、何か「存在感」「生命感」のようなものを感じさせるものと考えられる。「前(プロト)キャラクター態」とでもいうべきものに位置づけられるのである。逆にいえば、小池一夫によって「立てるもの」として見いだされたような意味での(あるいは、一般に考えられているような意味での)「キャラクター」が、実はマンガという表現全体から見れば、時代的にも、またマンガ表現のなかでも限定されたものでしかないことを意味している。
あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。
多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの
がんばって解釈すると
キャラクター:
物語上の登場人物という意味でのキャラクターのこと。
キャラ:
登場人物(上記の意味での「キャラクター」)ではないが、登場人物を描く絵それ自体でもない。
線画を基本とした図像で描かれる。
固有名で名指される。
「キャラクター」に先立つかたちで、ある種の「存在感」「生命感」を感じさせるもの。
伊藤における理論のうれしさ
伊藤は、〈キャラ/キャラクター〉という対概念を導入することで、次のことをしようとしている。
小池一夫などの先行論者のマンガ観において何が重視されていたか(そして何が相対的に重視されていなかったか)を明確にする。
マンガにおける〈キャラ〉および〈キャラクター〉が、それぞれどの時代・どのジャンルでどのようなあり方をしていたかを明確にし、その観点からマンガという表現形式の歴史の流れを記述する。
たとえば、「マンガにおける〈キャラクター〉が重視されるようになったのはこれこれの時代のこのジャンルで~」、「近年は再び〈キャラ〉への注目が増していて~」といった話ができる。
文献の概要
書誌情報:
高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」(『Contemporary and Applied Philosophy』6号、2015年)
描写の哲学(=絵についての哲学)をベースにして、フィクショナルキャラクターの画像に関する哲学的な問題を論じている。
議論の焦点は異なるものの、伊藤の〈キャラ/キャラクター〉の区別におおむね対応する概念が登場する。
話の前提
高田はまず、次の「キャラクター画像の非正確説」がもっともらしいことを示す。
キャラクター画像の非正確説
「公式の図像の一部は、キャラクターの形象的性質についてわずかにしか情報を与えない。」
つまり、マンガやアニメーションにおけるデフォルメ画像は、キャラクターの姿を正確に描いているわけではない。
たとえば、キャラクター画像は、〈目が顔の大半を占める〉〈鼻が点である〉といった内容を持つことがあるが、それらの特徴は、当のキャラクターの正確な姿とは普通考えられない。
余談:クリリンの鼻問題
パズル
非正確説は正しいと思われるが、高田によれば、非正確説を受け入れると以下のパズル(一見解きづらい哲学的な難問)が導かれる。
キャラクターの美的性質のパズル
①われわれは、キャラクターの姿が持つ美的性質を知っている(たとえば、〈かわいい〉〈かっこいい〉〈美しい〉など)。[観察される事実]
②われわれは、キャラクターの正確な姿を知らない。[非正確説からの帰結]
③あるものの美的性質を知るには、その形象的性質(=外見)を知っている必要がある。[美学の標準的な前提]
④上記の②と③を認めると、われわれは、キャラクターの姿が持つ美的性質を知らないことになる(というのもその正確な外見を知らないので)。
⑤しかし①と④は相反する(論理的に両立しない)。したがって、矛盾を解消するには、①②③のいずれかを否定しなければならない。
パズルの解決
高田は、③(あるものの美的性質を知るには、その外見を知っている必要がある)を否定することでパズルを解決する。
高田の主張:
われわれは、たしかに物語上のキャラクターの正確な姿は知らないとしても、画像が直接描く〈分離された対象〉の正確な姿は知っている。なので、〈分離された対象〉の姿が持つ美的性質は、問題なく知ることができる。
マンガなどの画像的フィクションの鑑賞では、一定の条件下で〈分離された対象の姿がしかじかの美的性質を持つならば、キャラクターの姿もまたその美的性質を持つ〉という取り決めが一般に成り立っている。
その取り決めのおかげで、われわれはキャラクターの姿を正確に知らなくとも、分離された対象の姿を知っているかぎりで、キャラクターが特定の美的性質を持つことを正しく知ることができるのである。
伊藤の〈キャラ/キャラクター〉との関係
高田の〈キャラクター〉は、伊藤の〈キャラクター〉におおよそ対応する。
高田の〈分離された対象〉は、伊藤の〈キャラ〉におおよそ対応する。
高田における理論のうれしさ
哲学的なパズルの発見と定式化をする(哲学者はこれだけでうれしがれる)。
〈分離された対象〉という概念の導入、および〈ある種の画像的フィクションには特殊な鑑賞規則がある〉という考えの導入によって、パズルを解決する。
パズルの解決そのものがうれしいというよりは、〈パズルを解決するためには、これこれのように考えなければ筋が通らない〉ということがはっきりするのがうれしい。
マンガやアニメーションなどのデフォルメ画像を使うフィクションの独特なあり方についての解像度が上がる。
文献の概要
書誌情報:
松永伸司「キャラクタは重なり合う」(『フィルカル』1巻2号、2016年)
高田の議論(とくにその前提になっている非正確説)やその他の論者のキャラクターにまつわる諸論点を引き継ぎつつ、伊藤や高田とは異なる観点から〈キャラ/キャラクター〉におおよそ対応する概念を提示している。
〈Dキャラクター/Pキャラクター〉の区別
Dキャラクター(diegetic character):
物語世界上の存在者(登場人物)としてのキャラクター。
伊藤の〈キャラクター〉におおよそ対応。
Pキャラクター(performing character):
Dキャラクターを演じる演じ手(俳優)としてのキャラクター。
伊藤の〈キャラ〉におおよそ対応。
松永によれば、マンガやアニメーションのような画像的フィクションでは、キャラクターの絵は直接的にはPキャラクターを描き、鑑賞者はそのPキャラクターの姿を通してDキャラクターの姿を想像する。
俳優のアナロジー
松永の議論では、PキャラクターとDキャラクターの関係は、実写映画(実写映像を使ったフィクション)における俳優とその人が演じる登場人物の関係に似たものとして想定されている。
実写映画における俳優と登場人物の関係:
われわれは、俳優の姿を通して登場人物の姿を想像する。
われわれは、俳優の姿は正確に知ることができるが、登場人物の正確な姿は知らない。
われわれは、俳優の姿については問題なく美的判断ができるが、登場人物の姿については少なくとも直接に美的判断ができない。
俳優は、登場人物を演じていないときにも(現実世界に)存在する。
われわれは、俳優が登場人物を演じているときでも、俳優についての言明と登場人物についての言明を区別できる。
続き
PキャラクターとDキャラクターの関係:
われわれは、Pキャラクターの姿を通してDキャラクターの姿を想像する。
われわれは、Pキャラクターの姿は正確に知ることができるが、Dキャラクターの正確な姿は知らない。
われわれは、Pキャラクターの姿については問題なく美的判断ができるが、Dキャラクターの姿については少なくとも直接に美的判断ができない。
Pキャラクターは、Dキャラクターを演じていないときにも(「キャラクター空間」という物語世界とは別の独特な世界に)存在する。
われわれは、PキャラクターがDキャラクターを演じているときでも、Pキャラクターについての言明とDキャラクターについての言明を区別できる。
松永における理論のうれしさ
伊藤の〈キャラ/キャラクター〉をより明確で使いやすい概念に改定する。
高田のパズルをよりシンプルなかたちで解決する。
実写映画とマンガ・アニメーションのあいだに、ある程度類比的な構造があることがわかる。
先行するキャラクター論に接続できる(たとえば東浩紀のデータベース消費論)。
その他、キャラクターにまつわるいくつかの現象が説明できるようになり、キャラクターについての理解の解像度が上がる。
マンガという表現形式に特有の性格(それならではの特徴)の一部がはっきりする。
文献の概要
書誌情報:
岩下朋世『キャラがリアルになるとき』12章(青土社、2020年)
高田や松永の議論を参照しながら、〈Pキャラクター/Dキャラクター〉といった理論的概念を具体的な事例に適用することで、特定の文化現象(たとえば『ヒプノシスマイク』の「公式の解釈違い」問題や2.5次元舞台)の説明を試みている。
『ヒプマイ』の「公式の解釈違い」問題
『ヒプノシスマイク』のコミカライズにおいて、公式に提示されたコンテンツが、ファンがそれまで想定していたキャラクター像とかけ離れているという点で多くの非難を受けた問題。公式の作者が提示する表現が必ずしもつねに「正しい」ものとして受け入れられるとはかぎらないことを如実に示す事例になっている。
参考記事:
引用:「解釈違い」問題についての岩下の説明
キャラクターをめぐる解釈違いとは「物語世界のキャラクターのありようをキャラクターの表象が間違って伝えている」というよりも、「物語世界におけるキャラクターのありようが、既に示されたキャラクターの表象を間違って解釈している」ものだと考えたほうがよいと思われる。
〔中略〕物語世界内のキャラクターとその演じ手としてのキャラクターの区別を踏まえれば、私たちが「解釈違い」において主張していることについて、次のように言うことができる。
「公式の提供するコンテンツは、推し(Pキャラクタ)に見当外れのキャラクター(Dキャラクタ)を演じさせている」
引用:2.5次元舞台についての岩下の説明
まず言えることは、キャラクターの享受とは、コンテンツを楽しむ上でPキャラクタに焦点を当てるようなあり方ではないかということだ。
たとえば、2.5次元について考えてみよう。〔中略〕2.5次元においては、「俳優の身体がPキャラクタとして機能して〔Dキャラクタを演じて〕いる」というよりも「俳優の身体がPキャラクタを演じている」のである。
〔中略〕2.5次元の人気を確立させた『テニミュ』では、原作およびアニメで示されたキャラクターのビジュアルを忠実に再現することが志向されている。〔中略〕なによりもまず、すでに親しまれた〔アニメ絵の〕「あの見た目」をしているか否かが、ここでは重視されているのだ。テニミュをはじめ2.5次元とみなされるコンテンツにおいては、演者は直接にDキャラクタを演じようとするのではなく、すでにファンに親しまれたPキャラクタを演じることを介して、Dキャラクタを表現しようとするのである。
岩下における理論のうれしさ
キャラクターを鑑賞する文化(人々のふるまいや価値観)のあり方を中心に、現代の特定の文化現象についての理解の解像度が上がる。
今回取り上げた文献
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』NTT出版、2005年
岩下朋世『キャラがリアルになるとき』青土社、2020年
高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」『Contemporary and Applied Philosophy』6号、2015年 https://doi.org/10.14989/226263
松永伸司「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』1巻2号、2016年
松永伸司「キャラクター」『美学の事典』丸善出版、2020年
その他今回の話題に関連してとりあえず読むとよい文献
東浩紀『動物化するポストモダン』講談社、2001年
小田切博『キャラクターとは何か』筑摩書房、2010年
シノハラユウキ『物語の外の虚構へ』logical cypher books、2021年
描写の哲学の勉強用
清塚邦彦『絵画の哲学』勁草書房、2024年
スライドおわり
次回は5月13日です。
5月2日(木)が月曜日授業の振替日になっていますが、休講にします。