系共通科目(メディア文化学)講義A
月曜4限/第5回
松永伸司
2024.05.27
SlidoのリンクはScrapboxにあります。
前回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
前回の〈表象〉と〈表出〉についてもう少し理解を深める。
以下は次回に回します。
〈美的述語〉〈美的性質〉〈美的判断〉という美学の最重要概念を理解する。
美的性質や美的述語を研究で取り上げたい場合にどうすればいいのかについて考える。
1. 表象とはなんだ Part 2
2. 表出とはなんだ Part 2
前回のリアクションペーパー
授業のスライドを簡単にpdf化する方法はありますか?
ipadでスライドに書き込みをしたいのですが、もし良い方法があれば教えてください。
A.
方法も含めてScrapboxで答えました。
PCだとPDF出力できますが、タブレットやスマホだと直接は難しいかもしれません。お手数ですが、PCでダウンロードしたPDFを転送するのがいいかもしれません。
表象とイメージ
表象の連鎖
辞書によると、表象とは「現在の瞬間に知覚してはいない事物や現象について心に描く像、イメージ」とあり、どこからどこまでが表象と呼べるのかがわからない。
受験勉強の過程で、表象=イメージだという話をきいたことがあるのだが、明確に誤用なのだろうかと気になった。
授業中slackで猫のイメージと表象について質問を投げたものです。授業内の説明で、表象とイメージを混同していたことがよく理解できました。一方で、表象とイメージがどう違うのか、双方がどう関係しているのかについてまだあまり理解しきれていません。イメージは社会の人々の意識の中に漠然としてあるもので、表象はそれが何かしらの具体的な形(例えばなにかしらの絵や映像、詩)を持ったものとして捉えてよいのでしょうか。
「表象」の多義性
「表象」という語には、少なくとも2つの用法がある。言い換えれば、ひとつの語に2つの異なる概念が結びついている。
わかりやすいように、2つの概念をそれぞれ〈表象①〉〈表象②〉と呼んでおく※。
表象①:心の中にある、外界の事物の対応物。いわゆる心的表象(mental representation)のこと。たとえば、ある人が猫について何かを考えるとき、実際の猫ではなく猫の表象①を心の中で操作している。
表象②:絵や言葉といった、何かをあらわす具体的な事物(またはそれが何かをあらわすという働き)。猫を描いた絵は、猫の表象②である。
※多義語を扱う場合は、こういうふうにそれぞれの概念にナンバリングするなどして区別すると混乱が少なくなる。
続き
前回の授業で取り上げたのは表象②のほう。表象①の話はしていない。
表象①と表象②の関係がどうなっているのかは複雑な話だが、ここではとにかく互いに別の概念であることだけ理解しておけばよい。
両者の関係に興味がある場合は、とりあえず戸田山『哲学入門』(筑摩書房)などをすすめる。
辞書に載っていたという「現在の瞬間に知覚してはいない事物や現象について心に描く像、イメージ」という記述は、明らかに表象①の説明であり、少なくとも直接には表象②に関係がない。
「イメージ」の多義性
厄介なことに、「表象」だけでなく「イメージ」も多義語である。しかも、「表象」の多義性とおおむね同じような多義性がある。
イメージ①:心に浮かぶ具体的な像のこと。とくに視覚的な像に限定して指すこともある。専門的には「心的イメジャリー(mental imagery)」という。
イメージ②:絵や写真のこと。コンピュータ上の画像ファイルもX線写真もfMRIの画像も、英語だとすべて“image”である。
日本語の「イメージ」は、イメージ①を指すのに使われることが多い。
一方で、英語の“image”は、むしろイメージ②を指す用法のほうが主だと思われる。イメージ①を指す場合は“mental”をつけたりする。
表象とイメージの関係
どちらの意味での「表象」「イメージ」かによって話が変わる。
表象①とイメージ①の関係:イメージ①は表象①の一種。包含関係にある。
表象②とイメージ②の関係:イメージ②は表象②の一種。包含関係にある。
表象①とイメージ②の関係:直接の関係かどうかはともかく、イメージ②の内容が表象①に働きかけることはよくある。
表象②とイメージ①の関係:表象②の内容がイメージ①に働きかけることもよくある。たとえば、「タヌキの絵が間違ったタヌキのイメージを広めている」と言う場合、この「イメージ」はイメージ①のことである。
疑問への回答
というわけで、「表象」と「イメージ」が互いに交換可能な場面はある(正確には同値関係というよりは包含関係として理解したほうがいいが)。
一方で、表象①と表象②、イメージ①とイメージ②をきちんと区別しておかないと混乱することになる。
めちゃくちゃ多い日本語の誤用(研究者含む)
たしかに、表象①(イメージ①を含む)が、表象②(イメージ②を含む)があらわす内容に対応することはある。表象②を見て表象①を心に思い浮かべることは普通にあるから。
しかし、絵やフィクション作品がある対象についての物の見方に影響を与えるという場合に、その絵やフィクション作品があらわす内容を「表象」と呼ぶのはほぼ誤用と言ってよい。
この言葉づかいは、英語の“representation”には見られないので、日本語特有の問題かもしれない。
おそらく、イメージ①を指す日本語の「イメージ」という語の使い方に引きずられている言葉づかいだと思われるが、表象①は表象②の内容のことではないし、表象②と表象②の内容も別の事柄である。
タヌキの表象
出典:東京タヌキ探検隊
あらわすもの
(文字・記号・絵・音声など)
対象
(表象がターゲットにしている物事)
性質
(表象によって対象に帰属される性質)
あらわされるもの
これを
これこれとして
あらわす
タヌキのイラスト
タヌキ
鼻が低い、でべそ、しましま尻尾、
目の黒い模様がつながっている、etc.
あらわされるもの
これを
これこれとして
あらわす
タヌキのイラスト
タヌキ
鼻が低い、でべそ、しましま尻尾、
目の黒い模様がつながっている、etc.
あらわされるもの
これを
これこれとして
あらわす
これが表象②
これではない
これは表象②の内容
タヌキのイラスト
タヌキ
鼻が低い、でべそ、しましま尻尾、
目の黒い模様がつながっている、etc.
あらわされるもの
これが表象②
これが表象①
心の中のタヌキ
タヌキってこれこれこんな感じだよね
表象②の内容が表象①のあり方に影響を与えることはあるし、描き手の表象①のあり方が表象②の内容に反映されることもあるが、両者は別物。
表象②の内容
授業中の質問(猫)を受けて考えたことなのですが、比喩表現はどういう位置付けになるんでしょうか。ある人を特徴や性質から連想して別のものの名前で呼んでいるとき、その呼び名は2つを同時に表象することになりますか。
A.
比喩もいろいろなので一概には言えませんが、表象の連鎖(多段階の表象)という考え方を紹介しておきます。
単純な象徴・寓意の例
それぞれ二段階以上の表象が成立しているケース。
鳩のモニュメント ➡ 鳩 ➡ 平和
ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》 ➡ これこれの姿をした三色旗を持つ女性、そのあとに続く人々、これこれの姿で横たわる男性、etc. ➡ 7月革命、理念としての自由、各社会階級の状況、etc.
イソップのアリとキリギリスの寓話 ➡ アリとキリギリスの会話、キリギリスの行動、キリギリスの末路、etc. ➡ 特定の教訓
イコノグラフィー(図像学)
絵画などを解釈する上でのお約束事を「イコノグラフィー」と言う。
たとえばキリスト教美術には、これこれの持ち物(アトリビュート)を持つ人物は、これこれの人をあらわすといったお約束事がある。
仏教美術にも同様のお約束事がある。
現代でも、たとえば三国志のキャラクターの表象などには、ある程度定まったイコノグラフィーがある。
イコノグラフィーによる表象は一般に多段階になる。
絵 ➡ 矢が刺さっている男性 ➡ 聖セバスティアヌス
絵 ➡ 面長で髭がめちゃくちゃ長い、緑の帽子をかぶったごついおじさん ➡ 関羽
デノテーションとコノテーション
記号論では、「デノテーション/コノテーション」という言い方で表象の連鎖が論じられることがある(それぞれ「外示/共示」などと訳されたりするが、あまりいい訳ではないのでカタカナで通す)。
デノテーション:明示的に示される意味。
コノテーション:含みとして暗に示される意味。コノテーションは、デノテーションが成立した上で二次的に生じる意味として説明される
いろいろなコノテーションの例:
隠喩と換喩
比喩のいろいろな種類の中で代表的な2つが隠喩(メタファー)と換喩(メトニミー)。
隠喩:何かを、それに類似する何かになぞらえるタイプの比喩。
例:「私の太陽」で恋人を指す。
換喩:何かを、それと隣接関係にある何かで代置するタイプの比喩。
例:「霞が関」で官僚組織を指す。
隠喩についてのひとつの説によると、隠喩は、対象の持つ諸特徴のうちのある特定の特徴を強調するために、その特徴を共有していたりその特徴にフォーカスを当てるのに使えたりするような別の何かを持ち出す修辞法である。
たとえば、リチャード1世をライオンにたとえる隠喩の場合、リチャード1世が持つ〈勇敢さ〉という特徴がライオンを持ち出すことで強調されている。
表象の連鎖関係
パノフスキー『イコノロジー研究 上』浅野他訳、筑摩書房
イコノグラフィーとは別に「イコノロジー」の水準があることを指摘した人。
最初の章で3つの意味(主題)の層の区別がある。この部分だけでも読む価値があるのでおすすめ。
バルト「記号学の原理」渡辺・沢村訳、『零度のエクリチュール』所収、みすず書房
デノテーション/コノテーションの話題を積極的に論じた人。
ちくま学芸文庫版『エクリチュールの零度』には収録されていないので注意。
佐々木編訳『創造のレトリック』勁草書房
英語圏のメタファー論の古典的論文をまとめた論文集。どういう説があるかを概観できる。
メタファーとは何かを考えたければ、最初にこれを読むのをおすすめする。
言語哲学関係
グライス『論理と会話』清塚訳、勁草書房
記号論系統の議論とは別に、言語哲学・コミュニケーションの哲学の文脈でも会話の含み(implicature)が論じられている。グライスはその代表的論者。
正直なところ、古めかしい記号論よりも言語哲学や関連性理論を勉強することをおすすめする。
『テトリスは』一番初めの作品が広く認知されているため、それ以降に出た作品は表象要素があるということができるのではないだろうか。
A.
たとえば『ウイニングイレブン』シリーズはサッカーではなくサッカーの表象(シミュレーション)ですが、『テトリス』の新しいバージョンは、オリジナルの『テトリス』の表象というよりはそれ自体が『テトリス』であると考えています。オセロなどで考えるともっとわかりやすいかもしれません。
松永『ビデオゲームの美学』(第12章4節)で少しだけその点を論じています。
文字通りの表出と表出的性質
悲しい曲の例
表出という言葉の意味について、作り手が表したものに対して何らかの感情をこめていなくても受け取り側の認識によって感情が読み取られるとその表したものは表出となるということに違和感を覚えました。
A.
もっともな疑問ですね。実際、〈表出〉はひとつの概念ではなく、本来異なる事柄が一緒くたにされている(なので分けるべきだ)という議論もあります。
「表出」の2つの意味
「表象」のときと同じく、ナンバリングで多義性を整理する。
表出①:文字通りの表出、真正の表出(genuine expression)。つまり、ある人が実際に抱いている感情が何らかの仕方で外的な事物(顔の表情、作品、etc.)に反映されていること。
表出②:表出的性質(expressive property)が事物のうちに見て取れること。つまり、それを指すのに何らかの感情用語(「悲しい」など)が使われる独特の性質が、事物のうちに見て取れること。
続き
前回の授業で取り上げていたのはどちらかと言えば表出②のほうだが、表出①のケースも具体例に入っていたので、その点で混乱を招いた可能性がある。
人間の表情は、表出①と表出②が同時に成り立っていることが多く、結果として表情を表出の典型例と考えると、この2つの側面がごっちゃになりやすい。
芸術作品について言われる意味での「表出」も、表出①と表出②の両方を含みがち。
たとえば、画家の実際の感情が絵の中に反映されていると同時に、その絵を見る人がそこに感情用語で指されるような何らかの独特の性質を見て取っているケース。
とはいえ、本来両者はまったく別の現象かもしれない(無関係ではないかもしれないが)。
理論的研究の進み方
このように、「こういうケースとこういうケースはちょっと別の種類では? なぜか一緒くたにされてるけど、区別したほうが整理できていいのでは?」という感じで概念(=事柄の切り分け)の解像度を上げていくのが、理論的研究のオーソドックスな発展の仕方のひとつである。
前回「表現」を例にして示したように民間概念を洗練させる場合もあるし、先行研究における理論的概念を洗練させる場合もある。
どの曲が悲しい曲なのか
前回の授業で「悲しい曲の例を挙げてもらえるとうれしい」という注文を出しました。ご協力ありがとうございます。
挙げていただいた曲の例は、Scrapboxで共有しました。
余談:よくあるコメントについての感想
「ある曲が悲しい曲に感じられるかどうかは人それぞれで異なるだろう」というコメントがよくある。それはまったくその通りだが、以下の点に注意しておいたほうがよい。
(a) 〈その曲を聴いて悲しさを感じる〉ということと、〈その曲は悲しい曲である〉ということは、別の事柄である。前者は自分の経験についての記述であり、後者は作品が持つ性質についての記述である。後者を主張する場合には、正当化(他人の納得)が要求される。
(b) 〈その曲を聴いて悲しさを感じる〉という物言いは、必ずしも喚起説を前提にしているわけではない。「悲しさを感じる」という述語が文字通りに〈自分が悲しい気持ちになる〉を意味しているかどうかははっきりしないから。
続き
(c) 〈ある曲が「悲しい」という述語を当てはめるのにふさわしいか否かについて意見が割れること〉と、〈「悲しい」という述語の意味(その語がどんな感情や性質を指すか)が人によって異なること〉は別の事柄である。
語「悲しい」を同じ意味で使っているにもかかわらず意見が割れているのか、そもそも語「悲しい」を別の意味で使っている(その結果、意見が割れているように見える)だけなのかという違いは、美学的な話をする場合はけっこう重要なので、ちょっと気にしたほうがよい。
たとえば、ある人は「悲しい」を「切ない」に近い意味で使っているかもしれないし、別の人は「悲しい」を「さびしい」に近い意味で使っているかもしれない。「憂鬱である」に近い意味で「悲しい」を使う人もいるかもしれない。
続き
(d) 表出の具体例についての意見の不一致がどれだけあろうがなかろうが、〈表出〉という概念の有用性には何も関係がない。
たとえば、好き嫌いは当然人によって異なるが、だからといって〈選好(preference)〉という概念が経済学その他で使えなくなるわけではない。
〈表出〉〈表象〉や次回取り上げる〈美的性質〉も、その点では同じである。個別具体的な事例についての判断が人それぞれだとして、だからなんやねんという話である。
この授業では、「これこれの曲は悲しい曲である」や「これこれの記号はこれこれの内容を表象しているものとして解釈すべきだ」といった個別具体的な主張は一切していない。話のポイントが伝わりやすそうな例をいくつか出しているだけである(失敗することもあるが)。その点を誤解しないように注意すること。
スライドおわり