系共通科目(メディア文化学)講義A
月曜4限/第6回
松永伸司
2024.06.03
SlidoのリンクはScrapboxにあります。
前回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
まだないです。
美学という哲学の一分野がどういう分野なのかについて大まかに理解する。
〈美的判断〉という美学の最重要概念を理解する。ついでに〈美的述語〉〈美的性質〉なども理解する。
特定の美的性質を研究で取り上げたい場合にどうすればいいのかについて考える。
1. 美学とはなんだ
2. 美的な事柄
3. インターネット文化のaesthetics
美学の初歩の初歩
美学の対象は芸術に限られない
「感性の学」の内実
最初の注意点:「美学」の多義性
この授業で言う「美学」は、学問分野としての美学のこと。
一方、俗に広まっている言葉づかいでは、「美学」という語が別の意味で使われることが非常に多い。
俗な用法の例:「男の美学」「引き際の美学」「小津安二郎の美学」etc.
この民間用法における「美学」は、「美意識」や「美的な事柄についての価値観」などと言い換えることができる。
美意識や美的な事柄についての価値観(より一般化すれば人々の美的実践)は、学問分野としての美学が関心を向ける対象ではあるが、学問分野としての美学は、何か特定の美意識や価値観を主張するものではない。
学問分野としての美学を、俗な意味での「美学」と混同しないこと!
いろいろな哲学の分野
学問分野としての美学(aesthetics)は、哲学の一分野である。
哲学の分野はいろいろある。
形而上学(存在論、メレオロジー、etc.)
認識論
心の哲学(知覚の哲学、感情の哲学、etc.)
科学哲学(物理学の哲学、生物学の哲学、etc.)
言語哲学
倫理学(規範倫理学、メタ倫理学、etc.)
美学 👈
etc.
美学の特徴づけ?
美学の入門書には、次のようなことがよく書かれている。
「美学とは、美・芸術・感性についての哲学である。」
この特徴づけは大まかには間違っていないが、いくつか注意すべき点がある。
①美学は、〈美(beauty)〉というよりは〈美的な事柄(the aesthetic)〉全般についての哲学である。美は、美的な事柄の一例でしかない。
②美学の対象は芸術に限られない。
③「感性についての哲学」は必ずしも「感性」を論じるわけではない。
①の「美的な事柄」が何なのかについてはあとで説明する。
ここでは、②と③について、美学史上の事情と絡めながら補足しておく。
〈芸術〉という括りの誕生
詳細は省くが、現在のわたしたちが「芸術(art)」と呼んでひとまとめにするようなカテゴリー、すなわち、絵画、彫刻、音楽、詩、演劇、ダンス、建築といった諸技術をグルーピングするカテゴリーは、18世紀半ばのヨーロッパで確立したものである。
逆に言えば、それ以前には、それらを一括りにする分類の実践はなかった。
たとえば音楽は、従来いわゆる自由七科(artes liberales)のひとつに数えられており、算術・幾何学・天文学と並んで四科(quadrivium)を構成していた。
ルネサンスあたりから、絵画・彫刻・建築はセットで考えられる傾向にあったが、それらは音楽や文学と同じグループの技術とは考えられていなかった。
18世紀になって、「美しい技術」「美しい自然の模倣の技術」といった言い方で、これらが同じ種類のものとしてグルーピングされるようになった。
美学の誕生
これも詳細は省くが、学問分野としての美学が誕生したのも、おおよそ同じ時期の18世紀半ばのヨーロッパである。
美学がもともとどういう前提と構想のもとで成立した学問分野であるかは非常にややこしい話だが、雑に言えば、次のような諸論点を問題にする新しい分野として成立したと言ってよい。
知性的認識に対比される感性的認識
想像力(とりわけ創造性を持つ想像力)
何かについて「美しい」とする判断(何かについて「善い」とする判断と対比されるもの)
趣味(=何がよいものかを感性的に判別する能力)
美学と〈芸術〉概念の関係
そういうわけで、〈芸術〉という概念の誕生と、学問分野としての美学の誕生は同期している。その背景として、17世紀の科学革命や近代の啓蒙主義という社会情勢的・思想的な動向が大きく関係していたことは確実だと思われる。
※このあたりの話に興味があれば、杉山先生に聞いたり各自で勉強したりしてください。
18世紀末から19世紀を経て20世紀前半にいたるまで、大半の哲学者が美学の主な対象として論じてきたのは芸術であり、芸術家であり、芸術美だった。
部分的に自然が扱われることもあったが、美学という分野と〈芸術〉という概念は、近代の全体を通じてかなり強力に結びついていたと言ってよい。
〈美的な事柄〉と〈芸術〉の分離
20世紀になると、美しさを重視しない芸術作品、さらには感性的に味わうというよりは知的に理解するタイプの芸術作品が登場してくる。
典型例は、マルセル・デュシャンの《泉》やジョン・ケージの《4分33秒》に代表されるようなコンセプチュアルアートの作品。
その一方で、芸術以外の事柄(自然の風景から身近な物事にいたるまで)も、美学の対象としての資格を十分に持つという事実が意識されはじめた。それらもまた、感性的に味わったり、それに対して美的判断が行われたりするものだからである。
結果として、〈美的な事柄(the aesthetic)〉と〈芸術〉は、深い関係にあるとしても、概念としては切り離して考えたほうがよいというのが常識になった。
※ちなみにこれはあくまで美学者の常識であって、いまだに両者を不可分であるかのように論じる人は多い。
狭義の美学と芸術の哲学
そういうわけで、現代の美学(とくに英語圏を中心とした美学、いわゆる分析美学)では、〈美的な事柄〉と〈芸術〉が概念として明確に区別され、それぞれを対象とする哲学の分野が「美学」と「芸術の哲学(philosophy of art)」と呼び分けられるのが標準になっている。
美学:〈美的な事柄〉とそれに関わる諸論点を論じる哲学
芸術の哲学:〈芸術〉とそれに関わる諸論点を論じる哲学
実際、現代英語圏の美学の教科書・入門書は、タイトルが "Aesthetics and Philosophy of Art" となっていることが少なくない。
ちなみにややこしいが、この狭義の美学と芸術の哲学をひっくるめて "aesthetics" と呼ぶ広義の用法も残っている。
今回の授業で取り上げるのは、狭義の美学の話である。
広義の美学
狭義の美学
美的な事柄とそれに
関する諸論点を
論じる哲学
芸術の哲学
芸術とそれに関する
諸論点を論じる哲学
特殊な能力としての「感性」
美学が「感性の学」や「感性についての哲学」と言われがちなのには複雑な事情がある。
美学史的な細かい説明は避けるが、重要なのは、〈知的な能力(物事を概念で理解する能力や推論によって結論を導く能力)でもなく、かと言って直接的な感覚能力(たとえば五感のような)でもない、ある種の特殊な能力が、美的判断では使われている〉と一般に考えられてきたという事実にある。
この特殊な能力は、伝統的に「趣味(taste)」と呼ばれてきた。「趣味がよい/悪い」と言う場合の「趣味」は、まさにこの意味である。
この意味での「趣味」は、現代の日本語で言えば「美的センス」などにおおむね対応するだろう。
狭義の美学のタスク
当然ながら、「感性」や「趣味」と呼びうる何らかの能力を担う身体器官がわかりやすくあるわけではない。美学のタスクは、「感性」という能力が何なのかを特定したり、どの身体器官がそれを担っているかを特定したりすることではない。
むしろ、美学は、次のような考え方で問いを立てる。
俗に「感性を使って判断する」と言われる事態は、いったいどういう事態なのか。
「感性を使った判断」と言われる判断と、その他の種類の判断はどう違うのか。
「感性を使った判断」と言われる判断は、ただの個人の好き嫌いと違うのか。違うとすればどう違うのか。
ようするに、「感性」なる能力が存在するという前提で考えていくのではなく、「感性を使って判断される」と俗に呼ばれるような独特な事態があるという前提で問いを立て、その事態がどのように独特なのかを考えていくのが、美学のアプローチである。
💣 めちゃくちゃ多い誤解 💣
以下の点に注意すること。
美学は、美の判定基準や成立条件を特定する学問ではない。美学を学んだからといって、何が美しくて何が美しくないかがわかるわけではない。
美学は、美の法則や作り方を教えてくれる学問でもない。美学を学んだからといって、きれいなパワポが作れるようになるわけではない。
たとえば、黄金比のような特定の比率にのっとれば美しくなるとかならないとかいう話は、哲学の一分野としての美学の仕事に何も関係がない。
なぜかわからないが、経験上、この点は相当くどく説明しても人に伝わらないことが多い。
コメントを書くときにちょっと気をつけてください。
美学史関係
井奥『近代美学入門』筑摩書房
良質の入門書。
美学についてほぼ知らない状態であれば、まずこれを読むことをおすすめする。
小田部『西洋美学史』東京大学出版会
美学や哲学について少しは勉強したことがある人向け。
さらに勉強するための入り口になる。
佐々木『美学辞典』東京大学出版会
辞典というよりは教科書に近い。
文章は難しいが、美学の基本的な事項がまとめられている。
「~~入門」を読むときの注意点
「入門」と銘打っているにもかかわらずまったく入門できない本は世に無数にあるので、「~~入門」を手当たり次第に読めばよいというわけではない。
とくに初学者は最初に変な本に当たると、受け身がとれないぶん、ひどいことになりかねないので注意。
読まないほうがましな本や論文もあるという認識を持っておいたほうがよい。
美的判断・美的性質・美的述語
美的判断の特徴
余談:ありそうな反応にあらかじめ応えておく
美的な事柄?
哲学上の言葉づかいとして、「美的な事柄(the aesthetic)」という形容詞の名詞化がよく使われる。
美的判断、美的性質、美的経験、美的価値などは、いずれも美学で論じられてきた事柄だが、「美的な事柄」という語は、これらの互いに関連する事柄をまとめて呼ぶための便宜上の総称だと考えてよい。
倫理的・道徳的な事柄(善悪の判断、行為の正/不正、人格の有徳さのように、倫理学で論じられてきた事柄)との対比で使われることもよくある。
美的判断の例
まずはわかりやすい例を見る。
最初のツイート「今ひとつ機内アメニティのデザインも垢抜けないフィンランド航空。」は美的判断の表明と言ってよい。
このツイートは、特定のアイテム(フィンランド航空の特定の機内アメニティグッズの外観)について、〈垢抜けなさ〉という性質を帰属している。
また、同時にネガティブな価値づけもしている。
この判断は、おそらくは、何かしらの推論や概念的な操作によって引き出されたわけではなく、「感覚的に」あるいは「感性を行使するかたちで」(と言いたくなるような仕方で)なされている。
美的判断の特徴づけ
何らかの事物(たとえば自然物や芸術作品やパフォーマンス)について、それが感性的に把握される(と言いたくなるような)独特の性質を備えていると判断することを、「美的判断(aesthetic judgment)」と言う。
美的判断は、価値づけ(美的な良し悪しの判断)を伴うことが多いが、価値づけをしない価値中立的なケースもよくある。
美的判断の例(適当)
この花瓶はシュッとしていてエレガントだ。
このダンスには静謐さと力強さの両方がある。
この楽曲は激しい中にもやさしさを備えている。
このコーディネートには抜け感がある。
この曲はチルい。
美的判断に関係する諸概念
美的性質(aesthetic property)
美的判断において対象に帰属される性質。感性的に把握される独特の質のこと。
例:垢抜けなさ、シュッとしている性、エレガントさ、静謐さ、抜け感、チルさ、etc.
美的述語(aesthetic predicate / aesthetic term)
美的判断で使われる述語。美的性質を名指す語。形容詞になりがち。
例:「垢抜けない」「シュッとしている」「エレガントである」「静謐さがある」「抜け感がある」「チルい」etc.
美的判断の対象
美的性質の帰属先。美的判断の主語の指示対象のこと。
例:特定のアメニティグッズ、特定の花瓶、特定の楽曲、特定のコーディネート、etc.
このアイテムのデザインは垢抜けない。
マリメッコのアメニティグッズ
垢抜けなさ
性質帰属
美的判断
美的判断の対象
美的性質
美的述語
美的にいまいち
価値づけ
美的性質を名指すこと
美的性質は「いわく言い難いもの(je-ne-sais-quoi)」であることが少なくないので、必ずしも美的述語が一意に割り当てられているわけではないし、比喩的な言い方もよく使われる。
とはいえ、典型的な美的述語(美的述語として使われることが多い語)はそれなりにある。
参考:シブリーが挙げる美的用語の一覧
ちなみに、「美しい(beautiful)」は美的述語のひとつでしかなく、〈美(beauty)〉は美的性質のひとつでしかない。古い美学はともかく、現代の美学では、美は無数にある美的性質の中で特権的な位置を占めるものではない。
美学で美的判断の特徴として言われていること
規範性
美的判断には、「正しい」判断と「間違っている」判断がある(少なくともわたしたちは相手に同意を求めるような規範的なニュアンス含みで美的判断をしている)。美的判断が人と不一致であった場合に論争が生じうるのはそのためである。
この点で、美的判断はただの好き嫌いとは異なる。
判断の理由の一般化できなさ
美的判断はしばしば理由づけ(なぜその判断が正当だと言えるのか)を伴う。しかし、その理由はふつう一般化できない。つまり、「これこれの条件を満たせば、これこれの美的性質を持つ」と言えるような一般的な法則が言えない。
この点で、美的判断は道徳的判断や有用性の判断とは異なる。
知覚との類比
美的判断を行うための経験や、その判断を正当化するための手段は、通常の知覚(たとえば色知覚)やその正当化のあり方に近い面がある。
価値づけの側面と性質帰属の側面
美的判断とひとくちに言っても、〈当のアイテムは、美的によい/よくない〉と述べる価値づけの側面と、〈当のアイテムは、しかじかの美的性質を持っている〉と述べる性質帰属の側面が別々にあると考えたほうがよい。
「このアメニティグッズは垢抜けない」のように、両方の側面が同時になされるケースも多いが、原理的に両者は切り分けられる。
価値づけのみの美的判断の例:「この花瓶はすばらしい」
性質帰属のみの美的判断の例:「あの花瓶はシュッとしている」
美的性質の非美的性質への依存
美的性質は、非美的性質(「感性」を使わずとも把握できる性質)にある意味で依存している。たとえば、花瓶の〈シュッとしている性〉は、その花瓶の形状や大きさや色やテクスチャに依存している。
一般に、美的性質Aと非美的性質Nは、「xがAであるのは、それがNであるおかげである(x is A because of its being N)」という関係にあるとされる。
ありそうな反応とそれへの応答
美的判断は人によって異なるのでは?「主観的」な判断にすぎないのでは?
そういう話は的外れな方向の議論にしかならない。
的外れなわけ①:美的判断にかぎらず、何であれ判断が人によって違う場合があるのは自明である。「人それぞれでは?」と言われたところで、「だったらどうした」程度の感想にしかならない。人それぞれであることにどんな問題点があるのか(もしあるとすれば)を特定してからでないと議論にならない。
的外れなわけ②:美的性質の実在が疑わしいという疑問であればもっともだが、その議論をしはじめると、美的性質だけでなく他の多くの種類の性質も巻き込んだ大きな話になる。たとえば、色のようないわゆる二次性質も、道徳的な性質も、すべて似たような意味で実在が疑わしくなる。そこまで引き受けてはじめて美的懐疑論は有意味になる。
加えて、美的性質が実在するかしないかという形而上学的な問題は、そもそも美的判断の独特さを考える上で避けて通れない問題というわけでもない。ようするに、美的性質が形而上学的な意味で実在しようがしまいが、美学の議論は成り立つ。
的外れなわけ③:一般的に言って、同意できない人がいるか否か(多いか少ないか)は、ある主張が正当化可能かどうかに直接には関係ない。数学上の主張、物理学上の主張、法学上の主張、コンピュータサイエンス上の主張、etc. いずれをとっても専門家以外にはちんぷんかんぷんだろうが、だからと言って主張が正当化されないわけではない。なぜ美的判断だけ大多数の一般人の同意を取り付けないといけないのか?
美的判断に正誤があるというのはどういうことか。結局は個人の好みの問題では?
その種の考えは「美的相対主義」と呼ばれる。古典的な格言である「De gustibus non est disputandum(人の趣味は議論できない)」は、美的相対主義の考えを端的に言い表したものとしてよく引き合いに出されるし、現代でも民間美学の中ではいまだに根強い思想である。
美的相対主義をがんばって擁護する立場も一応ありえる。ただ、美的相対主義は、美学の専門家にはすこぶる受けが悪い。というのも、次のページに示すように、美的相対主義に都合の悪い事実がいろいろとあるからだ。
美的相対主義を擁護するには、最低限そうした事実を説明する努力をしなければならない。
美的相対主義に都合の悪い事実:
事実①:美的判断は、見解の不一致があった場合に論争になりえる。そうなるのは、美的判断が対象に対して性質帰属をするものであり、たんなる「気持ちの表明」ではないからである。純粋に好き嫌いの言明であれば論争になりようがない。
事実②:明らかに適切でないと言いたくなる美的判断は十分想定できる。
事実③:わたしたちは、美的判断をするための能力が欠如しているという意味で「趣味が悪い(耳が腐っている、目が腐っている、舌がおかしい、etc.)」という言い回しを普通に使う。美的判断に正誤があると思っていなければ、こういう言い方にはならない。
事実④:そもそも言うほど見解の不一致は起きない。少なくともその道の「目利き」の間では、美的判断はある程度一致する傾向にある。
美的判断が個人の好みの問題に思えてしまうのは、ひとつには、性質帰属の側面と価値づけの側面を混同しているからではないかと思われる。価値づけの側面はたしかに好き嫌いに近いところがあるが、性質帰属の側面はそうではない。
美的判断には「感性」だけでなく知識も関わるのでは? たとえば美術史的な知識があるとないとで、美術作品に対する美的判断が大きく変わってくるだろう。
その理解で問題ない。大半の美学者はそれに同意するだろうし、現代の美学にはその話題を扱うための道具立てが十分にそろっている。
ただし、芸術作品に対する判断(価値づけや性質帰属)がすべて美的判断であるわけではないという点には注意しておく必要がある。述べたように、〈芸術〉と〈美的な事柄〉は別々のことである。
たとえば、芸術作品に対して適用される「オリジナリティがある」「歴史的に重要である」「戦争の悲惨さを主題としている」「ナポレオンが描かれている」といった述語は、典型的には美的述語ではない。
美的述語の具体例がまったくぴんとこない。非美的述語と何が違うのか。
ぴんとこないのであれば事例の選択に失敗しているということだが、いずれにせよ美的判断の実践に慣れ親しんでいない場合は、理解しづらい面がどうしてもある。
それは、たとえば普段スポーツを一切しない人に身体運動についての細やかな記述や概念がぴんときづらいというのと変わらない。
道徳的判断が比較的多くの人が普段からやっているものであるに対して、美的判断はそこまで多くの人が日常的にやっているわけではない(少なくとも自覚的にやっているわけではない)という事情はあるかもしれない。
分析美学における美的判断関係
源河『「美味しい」とは何か』中央公論新社
源河『悲しい曲の何が悲しいのか』慶應義塾大学出版会、2~3章
最初に読むべき2冊。
後者は2~3章が美的判断・美的性質の話になっている。美的判断の「主観性/客観性」がどうしても気になる人は、これを読めば疑問がある程度解消されるだろう。
シブリー「美的概念」吉成訳、西村編訳『分析美学基本論文集』所収、勁草書房
フランク・シブリーの古典的論文。
シブリーは美的な事柄の独特さをきわめて精緻に論じた論者だが、邦訳はいまのところこれしかない。
ステッカー『分析美学入門』森訳、勁草書房、3~4章
難しいので最初に読むのはおすすめしないが、源河本を読んだうえでもう少し勉強したい場合に読むとよい。
Zangwill, "Aesthetic Judgment," Stanford Encyclopedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-judgment/
Shelly, "The Concept of the Aesthetic," Stanford Encyclopedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-concept/
ネットスラング “aesthetic”
aestheticを扱う研究はどのようにして可能か
以下の内容は
次回に回します
Aesthetics Wiki
Aesthetics Wikiというウェブサイトがある。
「List A-Z」を見ればわかるが、大量の “aesthetic” を集積・一覧化し、それぞれについて具体例つきで説明しているサイトである。
グラフィックデザイン、写真、映画、音楽、ファッション、イラストレーションといった多様な文化から “aesthetic” が集められている。日本発祥のものも少なからずある。
次回に回します!
次回やるよ
“aesthetic” の意味
ここでの “aesthetic” はインターネット上のスラングと言ってよい。これはおそらく2010年代あたりから新たに発生した言葉づかいだと思われる。
この用法では、基本的に “aesthetic” は単数名詞として使われる(複数だとsが付く)。
次回!
aestheticの伝え方
Aesthetics Wikiに挙げられているような特定のaestheticを取り上げて、何かを論じる文化研究は十分考えられる。それは、現代のとくにインターネット文化上の美的実践のあり方を考える上で、非常に重要な視点だろう。
しかし、個々のaestheticが美的性質のパターンである以上、それを人に伝えるのが難しい場合があることが予想される。
そして当然ながら、自分が論じる対象を読み手・聞き手と共有できなければ、研究にならない。それゆえ、これは方法論上の問題になる。
これは現代文化の研究だけの話ではなく、たとえば美術史学で特定の様式を取り上げる研究にもある程度同じことが当てはまる。
次!
問題
リアクションペーパーのお題を提供しておきます。
自分が何か特定のaesthetic(美的性質のパターン)を論じたいとする。
しかし、論じたいaestheticがどういうものなのかについて、周りの人(たとえば指導教員や周りの学生)はぴんときていない。
この場合、どのようにして当のaestheticがたしかにあることを相手に伝えればよいか。言い換えれば、特定のaestheticを取り上げる研究において、論じる対象を共有するために最初にするべきことは何か。
この問題についてのコメントを書くかどうかは任意ですが、何か考えたことがあれば書いてください。
この内容は次回に回すので
コメントに書かなくて
かまいません
スライドおわり