系共通科目(メディア文化学)講義A
月曜4限/第9回
松永伸司
2024.06.24
隠れた前提に気をつける
SlidoのリンクはScrapboxにあります。
前回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
引き続き作品論の意義と作品解釈の正当化について考える。
「記述的主張」と「規範的主張」の区別を理解する。
規範的主張をする(あるいは聞く)ときの注意点について理解する。
1. 作品論の意義
2. 分析美学における意図論争
3. 記述的と規範的
前回のおさらいとやり残し
作品論の意義いろいろ
暗黙の前提に注意を向ける
作品論と批評は違うのか(前回スライドから)
まず、一般に「批評」や「考察」と呼ばれる多様な営みと、アカデミックな研究としてなされる作品論を、互いに排他的なカテゴリーとして線引きしようとするのはナンセンスである。
なので「両者は違うのか否か」という問い方はしないほうがよい。
むしろ、あるタイプの「批評」の特徴を観察することによって、アカデミックな作品論が何をやっているのかをよりよく理解できるということに注意を向けたほうがよい。
「批評(criticism)」と呼ばれる営みにはいろいろなタイプがあるが、何か作品を取り上げ、さまざまな理由・根拠を持ち出して、正当化を伴う仕方でその作品を評価する(あるいはその作品を歴史的に位置づける)タイプの批評は、アカデミックな作品論と数多くの共通点を持つ。
キャロルの基本的な考え(前回スライドから)
引用(『批評について』119–120頁)
「「批評の諸部分」という語が意味しているのは、一本の批評文を書くために必要となる、もろもろの作業のことである。通常、これらの作業は他の作業から完全に独立して行なわれるわけではないし、むしろそれらは相互に影響しあっているのだが、わたしたちは実用的な観点から、これらの作業をいくつかに区分することができる。〔…〕ここに含まれる作業としては、記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析、そして価値づけがある。」
「本書が掲げる批評観にしたがえば、〔…〕価値づけ以外の6つの作業の主な機能は、[最後の]価値づけのための根拠を提供するところにある。〔…〕批評家は、記述、文脈づけ、分類などの作業のうち、ひとつもしくは複数の作業をもとにして、[自分が最終的に提出する]評価を支えるのだ。」
批評と「アカデミック」な作品論の比較
各芸術学分野で「学術論文」として発表されるような「アカデミック」な作品論は、いま見たようなタイプの批評と比べたときに、どんな特徴を持つものだと言えるのか。
「アカデミック」な作品論の典型的な特徴
(a) 価値づけの側面(キャロルが批評の最終的な目的と考えているもの)が相対的に少ない。つまり、作品の出来のよしあしを明示的に述べることが相対的に少ない。
とはいえ、歴史的な位置づけも価値づけの一種だと考えれば、「アカデミックな作品論」もある意味での価値づけをしていると言える。
(b) 各種の根拠づけの作業を相対的に厳密に(確かな証拠をもとに)行う。たとえば、分類や文脈づけを十分な知見にもとづいて行う。
(c) 対象となる作品の選択にそれなりに気をつかう。つまり、当の作品を取り上げる研究上の意義をそれなりに気にする。
続き
とはいえ、「アカデミック」な作品論がやっている具体的な作業は、キャロルが挙げる批評の諸作業の範囲内におおよそ収まるはずである。(キャロルが言う意味での)批評と作品論に何か違いがあるとしても、それは相対的な程度の違いだと思われる。
スライド勢(教室に来ない勢)向け
このセクションの大半は、Scrapboxの「第8回 Q&A」の内容ベースで進めます(ここにリンクは張りません)。
「第8回 Q&A」のページも今回の授業資料の一部という扱いなので、コメントを書くにあたって読むようにしてください。
問い①:作品論の意義(前回スライドから)
個別の作品を論じる「学術的な」意義は(仮にあるとして)何なのか。
対象となる作品ごとにその意義は変わるのか。つまり、「この作品を論じる意義はあるが、この作品を論じる意義はない」といったことはあるのか。もしあるとすれば、その基準は何か。
既存の確立した研究分野における作品論は、基本的に、古典的な作品またはハイカルチャーの作品を対象にするが、ポピュラーカルチャーのアイテムを対象にする場合でも、作品論に意義はあると言えるのか。
キャロルが言う意味での批評は、すべて「アカデミック」な作品論として認められるのか(認められるべきなのか)。
作品論の意義は、批評の意義と同じか。
いろいろな意義の候補(「第8回 Q&A」から)
作品の中身そのものに意義がある派
解釈を収束させること/解釈の幅を広げることに意義がある派
楽しみを増やしてくれる派
教育的効果がある派
作品の歴史的な位置づけに意義がある派
文化の継承につながる派
作品からそれが作られた時代や地域やそれを作った人々のことがわかる派
学術的なネットワークの一端としての意義がある派
続き
よりよい生を与えてくれる派
他の人とコミュニケーションできてうれしい派
作品論自体に意義はないが作品論をすることを認めることに意義がある派
人々がその作品を好き/好きでない理由をはっきりさせられる派
不明確な価値・有用性を明確にする(あるいは発見する)理由づけの言説としての意義がある派
etc.
続き
いま見た作品論の意義の候補は、特定の目的や価値観が暗黙の前提として置かれているものが大多数だと思われる。
「xにはこれこれの意義がある」というタイプの主張の背後にそういう前提があるのは当たり前であり、そのこと自体に問題があるわけではない。
ただし、自分の主張のベースにどんな前提があるか(潜んでいるか)を自覚しておくことは議論を組み立てる上で非常に重要なので、少し意識するようにしてください。
作者の意図と作品の解釈
意図主義/反意図主義のバリエーション
おまけの論点
意図論争の概略
〈作品の「正しい」解釈は、作者の意図に沿って決まる〉という立場(おそらくもっとも素朴な立場)は「意図主義(intentionalism)」と呼ばれる。
20世紀の分析美学では、作品の解釈がどのように正当化されるか(あるいは実際にどのような正当化の戦略がとられているか)について議論は、意図主義への批判とそれに対する意図主義者からの反論から始まったこともあって、作者の意図と作品の解釈の関係をどう考えるかという論点を中心に展開してきた。この論争は「意図論争」と呼ばれることもある。
これは、まずは作品の解釈(キャロルの用語法だと解釈というより解明に相当する)、とくに文学作品の解釈をめぐる論争だが、解釈以外の批評の諸作業(たとえば記述や分析や分類)にもある程度までは応用できるだろう。
いろいろな立場
ここでは、大まかにどういう諸説が提案されているかを紹介するにとどめる。実際には、それぞれの立場には長所と短所があるが、そこに踏み込むとかなり細かいテクニカルな議論になるので、今回はそれぞれの説がどういう方向の主張をしているかだけを簡単に説明する。
ちなみに、諸説の区分の仕方にはいろいろある。ここでは、以下の論文にもとづいた区分を採用する。
原による諸説の区分
反意図主義(anti-intentionalism)
慣習主義(conventionalism)
価値最大化説(value-maximizing theory)
仮説的意図主義(hypothetical intentionalism)
意図主義(intentionalism)
極端な現実意図主義(radical intentionalism)
穏健な現実意図主義(moderate intentionalism)
諸説の概要
それぞれの説についての説明と勉強用の参考文献は、去年の授業スライドの下記ページ以降を参照。
今回は概略の紹介だけで、個々の説の細かい内容には踏み込まない。
コロンブス問題と作者の意図
Scrapboxの「第8回 Q&A」参照。
「である」論か「べき」論か
規範的主張をするときの注意点
ヒュームの法則と暗黙の規範的前提
「である」と「べき」
意図論争における諸説の主張は、どれも作品解釈の正当化の戦略についての主張である。とはいえ、諸説のそれぞれが、以下のどちらの主張をしているのかは、あまりはっきりしない(おそらく(b)のほうが多いと思われるが)。
(a) 作品解釈にたずさわる人々(たとえば批評家)は、そのような正当化の戦略を実際に採用している。
(b) 誰であれ作品解釈にたずさわるのであれば、そのような正当化の戦略を採用すべきである。
ひとまず、(a)タイプを「である」論、(b)タイプを「べき」論と呼んでおく。
いろいろな呼び名
「である」と「べき」の対比(is-ought distinction)は、それぞれ以下のように呼ばれることもある。
事実の問題か、価値の問題か(fact-value distinction)
記述的な事柄か、規範的な事柄か(descriptive-normative distinction)
ちなみに、伝統的な哲学における「理論的/実践的(theoretical / practical)」の対比もこれに近い区別である。
本来の「理論的/実践的」は、俗に言うような「机上の話」か「現場の話」かみたいな区別ではない。
むしろ、認識(何かをわかること)の問題か、行為(何かをすること)の問題かという区別に相当する。
規範的主張と記述的主張の大雑把な特徴づけ
規範的主張
「~べし」「~べからず」が付くような、何が望ましいかについての主張。あるいは何らかの指図を伴った主張。
何らかの価値判断(~はよい/わるい)が含まれている主張と言ってもよい。
記述的な主張
事実がどうであるかについて述べている主張(真偽、根拠の有無、確信の度合いは問わない)。
ややこしいが、誰か(人々)が規範的主張をしているということを事実として述べるのは、記述的主張である。
規範的主張と記述的主張の例
規範的主張の例
「この大学のキャンパスの周辺に立て看板を立ててはならない。」
「大学生は勉強したほうがよい。」
記述的な主張
「この大学のキャンパスの周辺には立て看板が立っている。」
「この大学の執行部は、キャンパスの周辺に立て看板を立ててはならないと言っている。」
規範的主張か記述的主張かは、必ずしも文面そのものから判別できるわけではない。文脈によって判別するしかないケースもある。たとえば、「大学生は勉強をするものだ。」のような発話は、文脈によってどちらの意味にも解釈できる。
考え方・論じ方の注意点
作品解釈の問題にかぎらず一般論として、「である」論と「べき」論が区別できていないとまともな思考・議論にならないので、十分注意すること。
「べき」論をまともにやろうとすれば、必ず「ある目的や価値観に即してどうあるべきなのか」という論法になるはずである。それゆえ、主張の前提になっている何らかの目的や価値観を明確にする(できればそれを明示する)ことが何より重要になる。
続き
たとえば、作品解釈の正当化の戦略について何か規範的な主張をするのであれば、まず前提として以下のような点をはっきりさせておく必要がある。
わたしたちは何のために作品解釈をするのか。
作品解釈という営みの意義はそもそも何か。
その意義は何によって支えられているのか。
etc.
人の規範的主張を聞くときの注意点
以上のことは自分が規範的主張をするときだけでなく、誰かが規範的主張をしているときにその主張を聞く(そしてその説得力を評価する)ときにも使える考え方である。
たとえば、Twitter上での議論、何らかの自治組織内での議論、etc.
ある人が記述的主張と規範的主張をごっちゃにした議論をしているなら、それはまともな議論ではない。
その人が天然でその区別をごっちゃにしているなら、端的に整理能力が低いので信用に値しない。
その人が意図的にその区別をごっちゃにしているなら、(扇動者としては優れていると言えるかもしれないが)邪悪なのでやはり信用に値しない。
ヒュームの法則
次のような考えは広く受け入れられている。
記述的主張だけを前提にして、規範的主張を結論として論理的に導出することはできない。言い換えれば、何らかの規範的主張を結論として論理的に導出するには、その前提の中に必ず別の規範的主張を含んでいる必要がある。
ようするに、事実をどれだけ集めても、それのみを根拠にして何か規範的なことを論理的に主張することはできないということ。
この考えは「ヒュームの法則」と呼ばれる。
※余談:ヒューム自身がこの見解を明示しているわけではないらしい。なぜ「ヒュームの法則」という名称になったのかは謎だが、ただのラベルなので気にしないでよい。この件については、伊勢田先生が最近ブログで調べていた。
ヒュームの法則に反している規範的主張の例(論理的には端的に誤謬だが、ありがちな規範的主張の例)
事例の出典:Is Ought: Department of Philosophy: Texas State Universit
例(それぞれにおける結論=規範的主張とその前提をよく観察すること)
「いまタバコのニコチン量にとくに規制はない。ゆえに今後も規制する必要はない。」
「自然にそうなっていないなら、そうすべきではない。」
「これまでずっとボンファイア・ナイトをやってきたのだから、これからもやるべきだろう。」(※ボンファイア・ナイトは歴史的な経緯がいろいろあるイギリスの行事)
「選挙人団は憲法に明記されているので、その制度をなくすことはできない。」
「当然ながら同性愛は不道徳だ。そんなことをしている動物はいないのだから。」
「性的パートナーがたくさんいるのはまったく自然なことです。自然に身を任せましょう。」
ヒュームの法則に反している規範的主張の例の続き
「試験で不正行為をしただけのことで何をそんなに大騒ぎすることがあるの? 以前読んだ記事によると、大学生の7割は不正行為をしたことがあるらしいよ。欲しいものを手に入れるために何でもするのが人間というものでしょ。だから、人はする必要のあることをするのがいいんだよ。」
「単純な話、争いたくなる性向は人間の本能なのだから、戦争は人類にとっていいことだ。」
「中絶が道徳的に許されるか否かをなぜ議論しているんですか? それは合法ですよね。」
考えるとき/何かを主張するときに気をつけておくべき点
①記述的主張のみを根拠として規範的主張をしていないか
記述的主張のみから規範的主張が導けるように一見思えてしまう場合は、隠れた(無自覚の)規範的主張が前提となっているだけである。その暗黙の前提を自覚しておいたほうが、他人(とくに見解が異なる他人)とコミュニケーションをする上でよい。
②記述的主張と規範的主張をきちんと区別できているか
両者の区別ができていないと何かを考える上でいろいろな不便がある。
一般論として、規範的な問い(物事はどうあるべきか)はリサーチクエスチョンになりづらい。ジェンダー論のように、少なからず規範的主張込みで研究が行われる分野もあるが、大半の研究は基本的には記述的である(少なくとも記述的な部分が主である)。それゆえ、この区別が明確にできていないと、答えられないような問いをリサーチクエスチョンとして立ててしまう可能性がある。
スライドおわり