系共通科目(メディア文化学)講義A
月曜4限/第10回
松永伸司
2024.07.01
「とはなんだ」とはなんだ
SlidoのリンクはScrapboxにあります。
前回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
よくある(誰もが最初はやってしまう)「定義」の求め方には、不適切なものが少なくないことを理解する。
記述的定義と規約的定義の違いを理解する。加えて、解明的定義についてなんとなく理解できるとよい。
必要条件と十分条件の働きについて理解する。
定義の目的(本当に必要かどうかも含め)を考える癖を身につける。
1. 「とは何か」の答え方
2. 定義の種類
3. 定義は必要なのか
「とは何か」という問い
「とは何か」の答え方?
だめな答え方
「~とは何か」
「Xとは何か」という問いに厳密な答えを出すこと(あるいはその答えの内容)は、一般に「Xの定義(definition of X)」と呼ばれる。
「Xとは何か(What is X?)」という問いの大半は、より正確には、「あるものがXであるとはどういうことか(What is it for something to be X?)」と言い換えたほうが、曖昧さがなくなってよい。実際、哲学の論文ではそういう言い回しがよく使われる。
ただ、文字数が増えて面倒なので、このスライドでは「Xとは何か」という不正確な言い方のまま進める。
なぜこの授業で定義の話を取り上げるのか
理由①
「定義」からスタートしようとする(そしてそのせいで袋小路にはまる、あるいはスマートな議論が組み立てられない)卒論構想やレポートがめちゃくちゃ多いから。
理由②
ゼミ発表などで他の人の発表を聞いて、そこに出てきたカテゴリーや概念について「定義」を問いただす質問者がめちゃくちゃ多いから。
「定義」が問われがちな具体的なケース
メディア文化学関係では、ある特定の文化的なジャンルを取り上げるタイプの卒論・レポート・発表(およびそれに対するツッコミ)において、当のジャンルの「定義」が問題にされることが非常に多い。
ヒップホップについての卒論→「ヒップホップの定義は?」
BLについての卒論→「BLの定義は?」
悪役令嬢物についての卒論→「悪役令嬢物の定義は?」
セカイ系についての卒論→「セカイ系の定義は?」
eスポーツについての卒論→「eスポーツの定義は?」
Webtoonについての卒論→「Webtoonの定義は?」
etc.
あらかじめの注意点:今日の授業の趣旨
特定のジャンルを取り上げる議論において、最初にそのジャンルの「定義」を求めたくなる気持ちはよくわかるが、考え方として筋が悪い。
というのも、多くの場合、その手の場面で本当に必要なのは定義ではなく別のことだから。
そこで「定義」を探したり要求したりするのは、不必要なものを求めているか、定義がどういうものであるかをそもそも誤解しているか、このいずれかだと思われる。
定義とは何をすることなのか、定義の役割は何なのかを十分理解すれば、不必要な場面で定義を求めたくなるという罠を回避する考え方が身につけられる。
ようするに、今回の授業の趣旨は「定義のやり方を学んで定義をしていきましょう」というよりは、「定義が何であるかを理解して、いらんところで定義を気にする(あるいは定義でないものを「定義」と呼ぶ)ことのないようにしましょう」である。
答え方を考える
「Xとは何か」のXに適当な何かを代入してみる。
たとえば「定義」「ライトノベル」「ムジナ」などを入れてみると、「定義とは何か」「ライトノベルとは何か」「ムジナとは何か」といった問いになる。
これらの問いに厳密な答えを出すこと(あるいはその答えの内容)が、定義の定義、ライトノベルの定義、ムジナの定義ということになる。
このような問いに答えを出すための具体的な手順はいろいろ考えられるが、自分ならどんなやり方でこの問いに答えるか、ちょっと考えてみよう。
答え方の候補
「Xとは何か」という問いが与えられたときに、次のようなやり方が思いつくかもしれない。
(a) 辞書を引く
(b) 字面に注目する
(c) 語源をたどる
(d) 実際の用法を見る
(e) 意味を取り決める
それぞれの答え方
(a) 辞書を引く
辞書(国語辞典など)で問題の言葉を引いて、そこに書いてある説明をそのまま答えに使う。たとえば、「定義とは何か」に答えたい場合であれば、「定義」や “definition” を辞書で調べる。
(b) 字面に注目する
単語や熟語の言葉のつくりに注目して、その「文字通りの意味」を明らかにすることで答えを出そうとする。
たとえば、「『定義』という語は、言葉のつくりとしては『定』+『義』なのだから、文字通りには〈義を定めること〉、すなわち〈意味を定めること〉を意味する」、「『ライトノベル』という語は、『ライト(軽い)』と『ノベル(小説)』の合成語であり、したがって云々」などと考える。
(c) 語源をたどる
問題の言葉の由来を調べ、その「原義」「本来の語義」を明らかにすることで、「~とは何か」に対する答えを出そうとする。
たとえば、「“definition”という語は、もとはラテン語の“definire”から派生したものであり、その本来の意味は云々」、「『ライトノベル』という語は、もともとこれこれの文脈で使われ始めて云々」などと考える。
このやり方は、(b)と組み合わせられることもよくあるかもしれない。
(d) 実際の用法を見る
その語が実際にどのような意味で使われているか、何を指すのに使われているかを確認し、その用法(文脈込みでの言葉の意味)を明確にすることで答えを出そうとする。
たとえば、「ライトノベル」という語が、実際に何を指すのに使われているのかを確認する。
記述的定義に相当する(あとで説明)。
(e) 意味を取り決める
当の文脈内でのその語の意味を取り決め、固定する。
たとえば「本稿では『定義』という語をこれこれの意味で使うものとする」と宣言するなど。
規約的定義に相当する(あとで説明)。
だめな答え方とそれがだめな理由
(a)(b)(c)は、いろいろな場面で目にするものだと思われるが、それぞれ定義のやり方としては適切ではない。
〈(a) 辞書を引く〉がだめな理由
辞書の内容は、項目の執筆者がその語の実際の用法(用法がいろいろある場合は複数)を簡潔にまとめたものだが、それが必ずしも信頼に足るクオリティの説明であるとはかぎらない(少なくとも専門家や哲学者による説明の精度よりは劣るのが普通)。それゆえ、より信頼に値する研究にあたるか、能力があるのであれば自分自身で〈(d) 実際の用法を見る〉の作業をしたほうがはるかによい。
加えて、そもそも自分が問題にしたい事柄や概念が、すでに辞書に記載されているとはかぎらない。
〈(b) 字面に注目する〉がだめな理由
「Xとは何か」という問いで問われているのは、“X”という言葉で名指される事柄(概念やカテゴリー)であって、“X”という言葉自体ではない。
“X”は事柄X(ああいうやつ)につけられているただのラベルであり、そのラベルの「文字通りの意味」がXの一般的な特徴を適切にあらわしている保証は何もない。
実際、名が体をあらわしていないような事例は無数にある(ある程度は適切なネーミングの場合でも、厳密に考えると正確な呼び名になっていないほうが普通である)。
アナグマ、カモシカ、青信号、写真、ロールプレイングゲーム、課金、メディア芸術、神聖ローマ帝国、学士(文学)、etc.
というわけで、「『ライトノベル』は『ライト』+『ノベル』なので云々」といった議論は端的に意味がない。
〈(c) 語源をたどる〉がだめな理由
(b)がだめな理由とおおむね同じ。
語源をたどることで明らかになるのは、“X”という語がどのように生まれたか、あるいは“X”という語の使われ方にどんな歴史があるかということであって、問題になっている概念やカテゴリーがどんなものであるかとは直接には関係がない(間接的な関係がある場合は多いだろうが)。
語源とカテゴリーの誕生が分離しているわかりやすい例:
art(芸術)というカテゴリーは18世紀半ばに成立したとされるが、その時点ではそのカテゴリーは“art”と呼ばれていたわけではない(”beaux arts”などと呼ばれていた)。
一方、“art”という語自体は、もともとラテン語の“ars”に(さらにさかのぼればギリシア語の“τέχνη”に)由来しており、“ars”は古代から中世を通じて技術一般を指す語として使われていた。ちなみにこの用法は現代でも生き残っている。
補足
以上のように書くと当たり前のことに思えるかもしれないが、定義が問題になっているときに(b)や(c)の方法をとってしまうタイプの誤りは、日常の場面でも研究の場面でもかなり頻繁に見られるので、十分注意すること。
もちろん、(c)はそれ自体である種の歴史研究としての意義はあるが、それは定義の方法として使うべきものではない。
ちなみに、(b)はそれ自体としての意義もほぼない(ダジャレの素材集めくらいにはなるが)。言葉のつくりを気にするのは基本的に無意味な思考だと考えておいたほうがよい。その種の言葉遊びが好きなタイプの哲学者は一定数いるが、なんとなくわかった気分になって丸め込まれないように注意。
参考記事:「メタバースとは何か?」定義を“作る”ところから考える
「メタバース」の「定義」をめぐる注意点をいろいろ挙げている記事。
定義論一般の注意点として読める。
じゃあどうすればいいんですか
「定義」の名に値するのは、(d)と(e)。
(d)は「記述的定義」と呼ばれるタイプの定義の手順、(e)は「規約的定義」と呼ばれるタイプの定義の手順におおむね相当する。
以下では、その2つの説明に加えて、両者の中間にあたる「解明的定義」についても少し説明する。
3種類の定義
必要条件と十分条件
記述的定義の前提とタスク
定義の種類の区別
「定義」と一口に言っても、いろいろな観点からいろいろな種類の区別がありえる。
ここでは、SEP(スタンフォード哲学百科事典)の「定義」のエントリーの区分を参考に、以下の3種類を紹介する。
規約的定義(stipulative definition)
記述的定義(descriptive definition)
解明的定義(explicative definition)
規約的定義(stipulative definition)
ある語の意味を取り決めるタイプの定義。通常は、その当の文脈内(たとえばひとつの文書内)でのみ効力を発揮する。先に挙げた(e)に相当する。
完全な新語を導入する場合もよくあるが、既存の語の意味を新たに取り決めることもある。
たとえば、数学上の用語や法律上の用語の一部は、日常的に使われる語を、日常的な用法から切り離して、規約的に定義したものである。
規約的定義は、単純に新しい概念やカテゴリーを作り出している(そしてそれに特定の名前をつけている)だけであり、どんな定義をしようが原理的には定義する人の自由である。
もちろん、作られた概念・用語が何らかの意味で便利か否かという評価はできるが、それが正しいか否かという評価はできない。
記述的定義(descriptive definition)
すでに通用している概念やカテゴリーを明確化するタイプの定義。先に挙げた(d)に相当する。
これは、ある事柄の一般的特徴を明確化することと言い換えてもよい。
たとえば、「知識とは何か」という問いに対して、「知識とは、正当化された真なる信念である」と答えるのは、わたしたちが普段理解している事柄としての〈知識(何かを知る)〉という事柄の一般的特徴を明確化することである。
あとで説明するが、記述的定義には、既存のカテゴライゼーションと整合していなければならないという制約がある。たとえば、〈正当化された真なる信念〉の範囲が、わたしたちが理解している意味での〈知識〉の範囲とずれていれば(つまり反例があれば)、その定義は正しくないということになる。
解明的定義(explicative definition)
すでに通用している概念・カテゴリーをベースにしつつも、より有用な(あるいはより事柄の本質に即した)概念・カテゴリーに作り替えるタイプ。ルドルフ・カルナップが定式化したもの。
※訳語が重複しているせいでややこしいが、キャロルの批評の話のときに出てきた「解明(elucidation)」とはまったく関係がない。
たとえば、本来〈魚(fish)〉は水中に生息する泳ぐ生き物全般をカバーするカテゴリーだっただろうが、ある時期に生物学の中で〈えら呼吸する水生の脊椎動物〉と定義しなおされた(現在ではまた別の定義になっているはずだが)。結果として、おそらく従来は魚の一種とみなされていたクジラその他の動物が、〈魚〉からは除外された。これは〈魚〉という概念を作り替えているという意味で、解明的定義の例である。
解明的定義の続き①
解明的定義もまた、既存のカテゴライゼーション(人々の分類・概念使用の実践)をベースにして行われるという点では、記述的定義と同じである。
一方で、既存のカテゴライゼーションとの不整合は、記述的定義では避けるべきことだが、解明的定義では(何らかの有用性があるかぎりで)問題なく許容される。この点で、解明的定義は、規約的定義の性格も部分的に持ち合わせている。
おそらく解明的定義に相当する例:
解明的定義の続き②
カルナップが挙げる解明的定義のガイドライン
(1) 類似(similarity)
定義のカバー範囲が既存のカテゴリーとどれだけ一致しているか。
(2) 条件の厳密さ(exactness)
適用条件がどれだけ厳密に定式化されているか。
(3) 実りの多さ(fruitfulness)
なんらかの普遍的言明や他の諸体系とどれだけつながりがあるか。
(4) 単純さ(simplicity)
どれだけシンプルか。
説明を飛ばします
定義はカバー範囲の明確化を目指す
規約的定義であれ、記述的定義であれ、解明的定義であれ、その定義によってある概念・カテゴリーがカバーする範囲を明確にする(あるいはその境界を画定する)ことを直接の目的としている点では共通である。ようするに、定義は「線引き」を目指すものである。
ある概念やカテゴリーに含まれる具体例(集合論の用語で言えば、ある集合に属する諸要素)の範囲のことを、哲学用語では「外延(extension)」と言う。ただ、ややこしいのでここでは「カバー範囲」で通す。
「線引き」つまりカバー範囲の明確化は、通常は必要条件と十分条件の組み合わせによって示される。
定義の示し方
どうやれば厳密な「線引き」ができるのか。定義(規約的/記述的/解明的を問わない)の具体例を使って考える。
素朴な型の定義の例
「人間とは理性的な動物である。」
被定義項(=定義されるもの):人間
定義項(=定義するもの):理性的な動物
※ただの古典的な定義の例。これが〈人間〉の定義として適切かどうかは、ここでは一切問題にしていないので注意。
この素朴な型の定義を、必要条件と十分条件によって明確に定式化してみよう。
必要条件と十分条件による定式化
〈人間〉の必要条件
あるものが人間であるのは、それが理性的な動物であるときにかぎる。
英訳:Something is a human only if it is a rational animal.
〈人間〉の十分条件
あるものが理性的な動物であれば、それは人間である。
英訳:Something is a human if it is a rational animal.
〈人間〉の必要十分条件
あるものが人間であるのは、それが理性的な動物であるとき、かつそのときにかぎる。
英訳:Something is a human if and only if it is a rational animal.
余談:より厳密な定式化
〈人間〉の必要条件
任意のxについて、xが人間であるならば、xは動物であり、かつ、理性的である。
英訳:For any x, if x is a human, x is an animal and rational.
述語論理:∀x (Human(x) ⇒ Animal(x) ∧ Rational(x))
〈人間〉の十分条件
任意のxについて、xが動物であり、かつ、理性的であるならば、xは人間である。
英訳:For any x, if x is an animal and rational, x is a human.
述語論理:∀x (Animal(x) ∧ Rational(x) ⇒ Human(x))
説明を飛ばします
必要条件と十分条件はそれぞれどういう働きをしているのか
必要条件の働き
「この条件を満たさないものは、この概念・カテゴリーには含まれません。条件を満たすものがどうなるかはしらんけど」ということを言っている。
ようするに排除の働き。
十分条件の働き
「この条件を満たすものは、この概念・カテゴリーに含まれます。条件を満たさないものがどうなるかはしらんけど」ということを言っている。
ようするに包摂の働き。
なので、片方だけだとカバー範囲が確定しない。両方そろうことで(必要十分条件では、それぞれの条件の内容も同じ)カバー範囲がはっきりと示せる。
Xの必要条件
内側がすべてXであるか
どうかはしらんけど
円の外側はすべて
Xじゃないよ!
X:被定義項(たとえば人間)
円:定義項(たとえば理性的な動物)
Xの十分条件
外側がすべてXでないか
どうかはしらんけど
円の内側はすべて
Xだよ!
X:被定義項(たとえば人間)
円:定義項(たとえば理性的な動物)
Xの必要十分条件
円の外側はすべて
Xじゃないよ!
円の内側はすべて
Xだよ!
X:被定義項(たとえば人間)
円:定義項(たとえば理性的な動物)
余談:必要条件と十分条件の
内容が異なるとどうなるか
円の外側はすべて
Xじゃないよ!
円の内側はすべて
Xだよ!
「しらんけど」の
領域が残る
X:被定義項(たとえば人間)
円:定義項(たとえば理性的な動物)
記述的定義に課される制約
必要条件と十分条件の働きは、どの種類の定義でも変わらない。
一方で、記述的定義や解明的定義の場合、定義(必要条件と十分条件の操作)による概念・カテゴリーの確定以前に、すでに世の中で通用している概念・カテゴリーが存在しているという前提がある。
とくに記述的定義の場合、定義(必要条件と十分条件の操作)によるカバー範囲を、既存の概念・カテゴリーのカバー範囲と一致させなければならないというタスクがある。
カバー範囲を一致させること
〈人間〉の記述的定義を例にして考えてみる。
まず前提として、わたしたちは、普段の言葉づかいや認識において、〈人間〉という概念あるいはカテゴリーがどの程度の範囲をカバーするものであるかを大まかに理解しているとしよう。逆に、この前提がなければ〈人間〉の記述的定義は不可能である。
〈人間〉の記述的定義には、この既存の〈人間〉のカバー範囲にできるだけぴったりあうように、必要条件と十分条件をデザインすることが求められる。
まとめ
記述的定義の前提(これがないとそもそも記述的定義ができない)
問題の概念・カテゴリーのカバー範囲(具体例の集合)が、定義以前にすでにある程度はっきりしている。たとえば、何が〈人間〉の事例であり、何が〈人間〉の事例でないかが、ある程度はっきりしている。
必要十分条件の役割
厳密な形式で、定義によるカバー範囲を作り出す。
記述的定義のタスク
定義によるカバー範囲が、既存の概念・カテゴリーのカバー範囲にできるだけ一致するように、必要十分条件をデザインする。
記述的定義の前提
既存の認識における
〈人間〉のカバー範囲
(ざっくりとした範囲)
既存の認識における
〈人間でないもの〉
のカバー範囲
記述的定義のタスク
既存の認識における
〈人間〉のカバー範囲
(ざっくりとした範囲)
定義によるカバー範囲(右の円)が
既存のカバー範囲(左の円)とできるだけ
一致するように条件を工夫する
既存の認識における
〈人間でないもの〉
のカバー範囲
〈条件C1, C2 . . .〉
を満たすもの
〈条件C1, C2 . . .〉
を満たさないもの
うまくいった記述的定義
既存の認識における
〈人間〉のカバー範囲
(ざっくりとした範囲)
既存の認識における
〈人間でないもの〉
のカバー範囲
〈理性的な動物〉
のカバー範囲
〈理性的な動物ではないもの〉
のカバー範囲
カバー範囲がぴったり一致すると
記述的定義として成功!
余談:想定される疑問と応答(余力のある人は読んでおいてください)
Q1. 「既存の認識におけるカバー範囲」と言うが、普通そのカバー範囲は明確に定まっていないだろう。明確でないカバー範囲に、明確な線引きをするはずの定義を一致させるとはどういうことなのか。
A1. そのようなケースは実際多いが、その場合にどうすればよいかについての考え方はいくつかある。ひとつは、「既存の認識におけるカバー範囲」を範例(典型的な事例)ベースで考えればよいというもの。言い換えれば、境界例(カバー範囲に含まれるか否かが微妙な例)はひとまず無視するということである。たとえば、〈ライトノベル〉の完全な範囲は明確でないとしても、典型的な〈ライトノベル〉の範囲や典型的に〈ライトノベル〉でないものの範囲はかなり明確だろう。大半のケースはそういう考え方で処理できる。
説明を飛ばします
続き
Q2. 仮に既存の認識におけるカバー範囲が明確であっても、それを完全に把握できることは普通はない。たとえば、〈人間〉の範囲が仮に明確にあるとしても、それに含まれるすべての事例をあるひとりの人が想像することは不可能である。それゆえ、既存の認識におけるカバー範囲は前提にしようがない。
A2. 既存の認識におけるカバー範囲に含まれる事例のすべてを把握することが普通はできないのはその通りだが、だからと言って記述的定義をすることに意味がないことにはならない。たんに記述的定義がつねに未知のデータによる検証にさらされるというだけの話である(自然科学の理論・仮説全般にもまったく同じことが言える)。実際、提案された記述的定義に対して反例が出されて定義の内容が修正されていくという哲学に伝統的に見られる営みは、専門家集団が協働的に定義の検証をしているということである。
説明を飛ばします
続き
Q3. ある概念・カテゴリーの既存の認識におけるカバー範囲は、いったい誰が決めるのか? それは記述的定義をする人自身が決めてよいものなのか? だとすればそれは恣意的なのではないか?
A3. 定義者自身が当の概念・カテゴリーに十分なじんでいるという自負があるなら、そのカテゴライゼーションを行う実践の一参加者(ある意味での当事者)として、自信をもって定義者自身が既存のカバー範囲を判断してよい。そのような判断を「恣意的」とは言わない。
余談:ちなみに分析哲学の悪名高い概念である「直観(intuition)」は、おおむね、そういう哲学者自身が実践の参加者として行う判断のことだと言っていいかもしれない。
逆に、そういう自負が定義者にないのなら、当のカテゴライゼーションの実践を外から観察したりその参加者に聞き取りをするという方法などが考えられる。とはいえ、基本的には記述的定義の営みは、実践の内部からの記述であるのが普通である。ようするに、当の概念・カテゴリーのことが自分でよくわかっていないなら、記述的定義をする立場にはないということである(ライトノベルの事例を見分けられない人が、ライトノベルの記述的定義をできるわけがない)。
説明を飛ばします
定義の必要性と不必要性
定義をして何がうれしいのか
示してきたように、定義は、突き詰めれば、ある概念・カテゴリーの範囲を明確にし、その境界を画定すること、ようするに線引きすることである。
そのように線引きすることの意義・うれしさはどの点にあるのか。
そもそもそれは必要なことなのか。
明らかに定義が必要・有用になる文脈
論理学や数学では、すべてが規約的定義から始まるので、前提として定義が必ず必要である(記述的定義の出る幕はおそらくない)。
法律、各種の社会的規則(校則、社則、スポーツやボードゲームのルール、etc.)、法的文書などは、定義(規約的定義や解明的定義)が必要になる文脈の典型である。
それらの文脈では公平なジャッジをする必要があり、そのためには何を何と見なすかの明確な取り決め・合意が不可欠だから。
医療や工学などの実践的な研究分野の文脈でも、ある種の共通化・標準化されたガイドラインとして(たとえば診断基準や各種の規格のベースとして)定義が必要な場面が多いだろう。
実験や調査をデザインする場面でも、定義が必要になることが多いだろう。計量的研究全般に必要と言ってもいいかもしれない(何を何としてカウントするかを明確に取り決める必要があるという点で)。
おそらく定義が不必要な文脈
会話などのコミュニケーションの場面で、何か認識の齟齬があったときに「定義」を求めてくる人はまあまあいるが、厳密な線引きが問題になるのでなければ定義はまったく必要ない。
相手の言葉づかいがよくわからないとか、自分の言葉づかいが相手にうまく伝わらないくらいのことなら、この授業で何回も説明してきたように、特徴づけと例示で済むことが大半だろう(ただし、美的述語の場合はこれがうまくいかないことも多い。第6~7回の内容を参照。もちろん定義もできない)。
会話の相手がそんな細かい話はしていないのに、ある概念やカテゴリーの境界事例や「反例」の存在にむやみにこだわるのは、実質的にクソリプになることがしばしばあるので気をつけたほうがよい(そして大半の概念やカテゴリーには曖昧な領域があるという当たり前の事実を受け入れましょう)。
研究一般に定義が必要と言えるか
研究一般における定義の必要性については、研究の種類やその都度の文脈によるとしか言えない。
たとえば、テクニカルターム(当の論文内においてのみ使う)を導入したいなら、厳密な定義(規約的定義)があったほうが便利なことは多いだろう。
また、哲学的な定義論(基礎的な諸概念の必要十分条件を求めることで世界や人間の「本質」みたいなものを探ろうとする営み)では、記述的定義をすることそれ自体が研究の目的になる。
一方で、(多くの卒論やレポートはそれをしたいのだと思われるが)たんに当の研究において取り上げる対象の範囲を示すというだけなら、定義というかたちをとる必要はない。たいていは、特徴づけと例示で十分である。研究対象の範囲を厳密に線引きしたいなら話は別だが、そういう厳密な線引きに何か実質的な意義があるようなケースは、あまり多くないと思われる。
まとめ①:今日の教訓
「~とは何か」という問いをついつい立てたくなる(そして「定義」を求めてしまう)場面は実際よくある。たとえば、スライドの最初に挙げたように、ある文化的なカテゴリーについての研究をしようとなったときに、その文化やジャンルはそもそも何なのか、それはどこまでの範囲をカバーするのか、という問いが最初に思い浮かぶのはごく自然である。
とはいえ、そこで定義論に進む前に、自分がそこで問うているのが本当に定義の問題(厳密な線引きの問題)なのかどうか、自分の関心にとってその問いに答えるのが本当に必要なのかどうか、といったことをまず考えたほうがよい。
たいていのケースでは、必要なのは、当の文化的なカテゴリーが実際に存在するという事実と、その大まかな特徴を示すことだろう。それをするには、典型例の例示(およびもし可能なら簡単な特徴づけ)やそれについて語っている言説の例示があれば十分であり、必要十分条件の提示という意味での定義はまったく必要ない。
まとめ②:定義論の作法
何かの定義を考えようとする前に、ひとまず立ち止まって考えるべきチェックリストをまとめておく。
概念・カテゴリーの線引きとしての定義は、目下の自分の関心にとって本当に必要なのか。
必要だとして、どの種類の定義が必要なのか。記述的か解明的か規約的か。
それぞれの種類の定義の特性を自分はきちんと理解しているのか。
必要条件・十分条件などの定義の具体的な方法を自分はきちんと扱えるのか。
以上のことを自分の中で十分に消化できないうちは、「定義」という語を使って何かを考えたり言ったりするのをやめておくことをおすすめする。
定義一般について
Gupta, "Definitions," in Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2021. https://plato.stanford.edu/entries/definitions/
英語だが、定義に興味があるなら一読しておくのをおすすめする。
日本語で読める定義一般についての概説は、いまのところ見つけられていない。分析哲学系の入門書の一部にそういう内容のセクションがあるかもしれないとは思うが。
芸術定義論
芸術定義論(芸術とは何かをめぐる議論)は、一見すると不毛だが、定義をめぐる考えかたや論争のバリエーションを概観するにはかなりよい題材である。芸術の定義論を少し勉強しておけば、ちまたで話題になるような「~とは何か」「~の定義は~」系の民間論争がいかに混乱に満ちているかがわかるようになる(ひいてはそれを交通整理できるようになる)。
ステッカー『分析美学入門』森訳、勁草書房、2013年
第5章が芸術定義論の話になっている。
Adajian, "The Definition of Art," in Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2018. https://plato.stanford.edu/entries/art-definition/
残念ながら、芸術定義論もわかりやすくまとまった日本語文献があまりない。
スライドおわり