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廃墟鑑賞の実践
本発表でやりたいこと
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現代日本における廃墟ブーム
廃墟ブームとは、放棄されたホテルや遊園地、病院、学校、一般家屋などの高度経済成長期以後の廃墟を探索し、写真に収め、その写真をインターネット上に公開する、あるいは、写真集を出版する人々によって成り立っている現象である。このような活動をする者のことを日本では〈廃墟マニア〉、英語圏では〈アーバン・エクスプローラー〉と呼んでいる。今日における廃墟ブームは〔…〕1980 年代にまで遡ることができる。(飯田 2016, 23)
※今回の発表では事例として現代日本における廃墟鑑賞を取り上げるが、廃墟を楽しむ実践自体はすでに18世紀のヨーロッパにおいて明確に成立している。
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廃墟マニアの具体例
廃墟マニアの一部は廃墟を美的に鑑賞している。
※この意味での価値判断をその理由とともに明確に表現している文章は「廃墟批評」と言ってもよい。実際、前ページの具体例は、シブリー (2015) が「批評家の仕事」として挙げるふるまいにかなり近いことをしている。
本発表の動機
本発表のメインの主張の先取り
※ここでは、主張がかなり大ざっぱな言い方になっているので注意。発表を通じて、より正確な表現に言い換えていく。
美的鑑賞の対象としての廃墟は、
その本性上、保存できない。
非美的な用法と美的な用法
区別を深掘りする
美的カテゴリーとしての廃墟
ひとまずのまとめ
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廃墟の素朴な特徴づけ
※Scarbrough (2015, sec. 2.4) は、先行する廃墟定義論についての優れたサーベイになっている。そこで最初に取り上げられているRizziの定義は、この特徴づけにかなり近い。
まとめると
※人が住まなくなった/使わなくなった時期についての制約は必要か、一度も住まわれなかった/使われなかった建物は廃墟になりえるか、どの程度まで本来の機能を喪失している必要があるか、どのようなプロセスで機能を喪失したが、〈使用〉のうちから〈廃墟としての使用〉を除外すべきか、といった細かい問題を無視すれば、それなりにもっともらしい。
しかし素朴な特徴づけは〈廃墟らしさ〉を拾っていない。
※Scarbrough (2015) が取り上げる先行定義論の一部も、ここで「廃墟の魅力」とされている特徴を定義項に含めている。難波発表も参照。
それゆえ「廃墟」には2つの用法があると考えるのが自然。
廃墟の美的鑑賞とは無関係に素朴なかたちで特徴づけられるものとしての廃墟。
非美的な用法における廃墟
廃墟の美的鑑賞に関与的な特徴によって特徴づけられるものとしての廃墟。
美的な用法における廃墟
N廃墟
A廃墟
次のような事実がある。
この手の事例は、N廃墟とA廃墟の区別を使えば次のように説明される。
N廃墟を美的に鑑賞しているが、それをA廃墟として鑑賞しているわけではないケース。
逆に、最初に挙げた廃墟批評の事例は、次のように説明される。
N廃墟をA廃墟として鑑賞しているケース。
ここからさらに導かれる考え
N廃墟は事物を分類する概念である。つまり、N廃墟は建物のサブクラスであり、建物のうちの特定の特徴を持つものである。
それに対して、A廃墟は事物を分類する概念ではない。これこれの建物がA廃墟か否かを問うのはナンセンスである。
むしろ、A廃墟は(「A廃墟として鑑賞する」という言い方が自然に成り立つことから示唆されるように)事物を見るある種の見方、鑑賞のフレームのことである。
鑑賞のフレームとは?
おおむね、ウォルトン (2015) が「芸術のカテゴリー」という言い方で論じたものを想定している。
廃墟の文脈で「芸術」と言うと不自然なので、ここでは「美的カテゴリー」と言い換えておく。
ウォルトンのカテゴリー概念のポイント
(a) 美的性質を知覚するためのフレームである。つまり、どのカテゴリーを対象に適用するかによって、知覚対象の美的性質が変わりうる。
(b) ある対象にとって適切なカテゴリー適用と不適切なカテゴリー適用がありえるが、どちらにせよその対象の知覚に影響を与える。
(c) カテゴリーの同一性は、標準的/可変的/反標準的な特徴の組として与えられる。
※ウォルトンのカテゴリー概念については萬屋発表でも登場するので、基本的な説明は省略する。
これらのポイントをA廃墟に当てはめると
(a) A廃墟は、廃墟ならではの魅力(美的性質)を知覚するためのフレームである。
(b) おそらく、A廃墟というフレームを適用するのが適切な対象は、N廃墟だろう(N廃墟でないものをA廃墟として鑑賞することができるかどうかは定かではない)。
(c) A廃墟にも標準的/可変的/反標準的な特徴がある。
非美的用法における廃墟(N廃墟)と美的用法における廃墟(A廃墟)は区別すべきである。
この区別によって「N廃墟をA廃墟として鑑賞する」や「N廃墟をA廃墟としてでなく鑑賞する」という言い方が可能になる。
N廃墟は分類概念であり、建物の下位概念である。
A廃墟は分類概念ではない。むしろ美的カテゴリー、つまりある種の知覚のフレームである。
論証の骨格
標準的性質としての朽ち
朽ちの分析
2つの壊れ方
前提①:美的カテゴリーとしてのA廃墟の標準的特徴には、〈朽ち〉(decay)が含まれている。
※廃墟Explorerに廃墟批評を代表させることに対して疑問があるかもしれないが、飯田 (2016) によれば管理人の栗原亨はインターネット時代以降の廃墟ブームの第一人者と言ってよく、代表者として十分に適格だと思われる。実際、他の廃墟批評にも同種の記述は多かれ少なかれ見られる。
いい感じになるには、あと数年は静かに寝かせておきたい物件です。
なにも無い廃墟もつまらないものですが、これほど綺麗な廃墟も、また味が無さ過ぎですね。
http://www2.ttcn.ne.jp/hexplorer/kyaraban.htm
時間だけが、創り出せる「廃墟」の色です。
http://www2.ttcn.ne.jp/hexplorer/kawanon.htm
大宴会場も今では、暗闇のなかで朽ち果て、その巨大な骸を惨めに晒して〔…〕
中宴会場〔…〕大宴会場とは違い、光が溢れていました。皮肉にも割られたガラスのお陰で〔…〕
http://www2.ttcn.ne.jp/hexplorer/sanou.htm
セピアのコンクリートと錆びた鉄板のコンビが素敵な色を演出しています。
http://www2.ttcn.ne.jp/hexplorer/kemigawa.htm
取れかけの文字、割れたガラス、落書きetcが「廃墟」を演出します。
廃墟を廃墟らしくするには、時間とドキュンの存在は不可欠かもしれません・・・。
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廃墟Explorerの廃墟批評
※美的カテゴリーにおける標準的特徴と可変的特徴の関係は、determinableとdeterminateの関係になることがよくある(たとえば絵画における〈色が塗られている〉と〈これこれの色がこれこれの場所に塗られている〉)。ここでの〈朽ち〉と〈朽ちの個別のありさま〉の関係もそれと同様だろう。
前提②:朽ちは非人為的な変化の結果である。
朽ちの特徴づけ
※エイジングを廃墟の定義項に入れる論者は多いが、朽ちの側面を拾おうとしているのだと思われる。
前提①②から次の帰結が出てくる。
まじめなA廃墟鑑賞の対象であるための条件:
「まじめ」?
前提③:保存・管理の活動は人為的になされる。
前提①②の帰結および前提③から次の帰結が出てくる。
あるN廃墟Rが保存・管理の対象であるかぎり、RをA廃墟としてまじめに鑑賞することはできない。
逆に、RがまじめなA廃墟鑑賞に適格な対象であり続けるかぎり、Rを保存・管理することはできない。
かっこよく言い換えると
いまA廃墟としてまじめに鑑賞されているN廃墟Rは、保存・管理によってA廃墟鑑賞の対象としてふさわしくなくなるか、またはA廃墟鑑賞にふさわしい対象であり続けることでRとしての同一性を失っていくか、このいずれかである。
どちらにしても、A廃墟鑑賞の対象としてのRは永続しない。それはいつか崩壊する運命にある。
議論の一般化
廃墟概念の拡張
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意図せざる美的性質
建物以外に廃墟を広げる
デジタル廃墟