メディア文化学/美学美術史学(特殊講義)
月曜4限/第8回
松永伸司
2025.12.22
「ひとつのゲーム」「ひとつのビデオゲーム作品」というときのその同一性について、独特の問題があることを理解する。
ゲームのプレイと上演芸術のパフォーマンス(音楽の演奏、演劇の上演、etc.)が、どの点で同じでどの点で違うかを考える。
分量の都合でやめました。大まかな論点と勉強用の文献だけ示します。
1. 前提の整理
2. ゲームの存在論①:同一性の問題
3. ゲームの存在論②:上演との類比の問題
今回の授業では、語「ゲーム」と語「ビデオゲーム」を厳密に使い分けます。「ビデオゲーム」の略称として「ゲーム」を使うことはありません。
コメントを書くときも十分注意してください。
ビデオゲームとはなんだ
そもそもゲームとはなんだ
例示
毎度のように、例示からスタートする。
ビデオゲーム作品の例:
『スーパーマリオブラザーズ』、『テトリス』、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』、『Grand Theft Auto V』、『Minecraft』、『Undertale』、『Doki Doki Literature Club!』、『Among Us』、etc.
ビデオゲームコンソール(ビデオゲーム専用機器)の例:
任天堂ファミリーコンピュータ、ニンテンドー3DS、Nintendo Switch、PlayStation 5、Xbox Series X、etc.
例示の続き
ビデオゲームのハードウェアの種類(括弧内はハードウェアにもとづいたビデオゲーム作品の分類):
据え置き型ビデオゲームコンソール(コンソールゲーム)
携帯型ビデオゲームコンソール(コンソールゲーム)
業務用ビデオゲーム筐体(アーケードビデオゲーム)
PC(PCゲーム/コンピュータゲーム)
携帯電話/スマートフォン(モバイルゲーム)
etc.
雑な特徴づけ
ビデオゲームはだいたいこんなもの:
コンピュータ(専用機であれ汎用機であれ)上でプレイするタイプのゲーム。
出力インターフェイスについては、ディスプレイ画面が最重要の要素(画面表示なしのビデオゲーム作品は数えるほどしかない)。
入力インターフェイスの形態はさまざま。ゲームパッド、キーボード/マウス、タッチスクリーン、etc.
ひとりでプレイするものも複数人でプレイするものもある。
ビデオゲームの細かい定義論については、拙著『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会、2018年)の第1章を参照。正直とくに面白い話題ではない。
ビデオゲームの上位カテゴリーとしてのゲーム
いろいろと異論はあるものの、細かい話はさておいて、ビデオゲームはゲームの一種(下位カテゴリー)だとしておこう。
さて、ビデオゲームの上位カテゴリーとしてのゲームとは、そもそもどういうものなのか。
ゲームの種類別の例示
ボードゲーム:
将棋、囲碁、チェス、バックギャモン、etc.
カードゲーム:
ポーカー、花札、ババ抜き、大富豪、麻雀、etc.
スポーツ:
サッカー、野球、バスケットボール、テニス、剣道、柔道、フィギュアスケート、ボウリング、ビリヤード、etc.
ビデオゲーム:具体例は省略。
etc.
ゲームの特徴づけ
ゲームの定義論として有名なイェスパー・ユールの『ハーフリアル』第2章の議論をざっくりとまとめると、ゲームは、おおむね以下の特徴を持つものである。
(a) ルールがある。言い換えれば、プレイヤーが〈できること〉を明確に規定する決まりがある。
(b) 結果が可変であり、かつ、そのうちの特定の結果に価値が割り当てられている。ようするに、「勝ち」や「負け」と呼ばれる結果がある。
(c) プレイヤーは、特定の結果を達成すべく努力する。
(d) 結果は、ゲーム内での価値が割り当てられているとしても、ゲーム外での価値には強く結びついていない(少なくともゲーム外の価値との結びつきが任意である)。
ボードゲームやスポーツの典型例に当てはまるかどうかチェックしてみよう。
余談:ボーダーラインケースの扱い
これらの条件をすべて満たすものは、問題なく「ゲーム」と呼べるだろう。
一方で、条件の一部を満たさないものもある。そうした微妙な事例を「ゲーム」と見なすか見なさないかは理論的選択だが、大きな問題ではない。「ゲーム」の範囲を広くとりたいか、狭くとりたいかという話でしかない。
実際のところ、多くのビデオゲーム作品は、ユールが示す条件の一部を満たしていない。ビジュアルノベルやウォーキングシムの作品のように、条件の大半を満たしていないケースもある。結果として、それらの作品を「ゲーム」と呼ぶかどうかで不毛な論争が起きたりする。
毎度ながらこの授業では、その手の線引き問題は一切気にしない。定義や線引き問題を気にせずに思考する癖をつけましょう。
『ハーフリアル』にあるピザっぽい図。
ゲームと非ゲームの間にボーダーラインケースがあるよという話。
ちょっと休み
存在論的な論点
素朴な観察
媒体横断性
ルール/フィクション
ビデオゲームの諸実践と存在論
応用的な話題:法律上の扱い
ゲームの存在論の論点
芸術存在論の観点からゲーム(ビデオゲームに限らず)についてよく論じられる論点は、おおむね以下の2つである。
同一性の問題:われわれは将棋やサッカーや『テトリス』や『スーパーマリオブラザーズ』を「ひとつのゲーム」としてカウントするが、何がどうなれば「違うゲーム」になるのか。言い換えれば、われわれは、あるひとつのゲームの同一性条件にどういう要素を含めているのか。
上演芸術との類比の問題:ゲームはプレイされて初めて鑑賞の対象になる。ルールブックを眺めているだけでは、ゲームを評価できない。この点では、音楽や演劇といった上演芸術(作品の事例が出来事であるタイプの芸術形式)とかなり似たあり方をしている。ということは、ゲームをプレイする行為は、上演芸術におけるパフォーマンスと同じなのか。それとも、それらとの間に何か重要な違いがあるのか。
続き
上記の2つの論点の両方に密接に関連することとして、次のような論点もある。
ゲーム批評の正当化の問題、事例の真正性の問題:
ビデオゲーム作品も含めたひとつのゲームに対して、われわれは批評(理由にもとづいた価値づけ)をすることがある。ビデオゲーム作品のレビュー記事はその典型である。
しかし、ゲームはプレイする人ごとに、あるいは同じ人であってもプレイするたびに、その具体的な事例(ゲームプレイ)は大きく異なるあり方をする。質的に多様な事例を持つ対象に対して、良し悪しを言うことはどのように正当化されるのか。
そもそも異なるプレイヤーは、「同じゲーム」や「同じビデオゲーム作品」をプレイしていると言えるのか。プロがする将棋やサッカーと、素人がする将棋やサッカーは「同じゲーム」なのか。
参考:ポピュラー音楽の回で論文を紹介した今井さんのツイート群
今回扱う論点
分量と時間の都合上、今回の授業では「同一性の問題」だけを扱う。
「上演芸術との類比の問題」については、大まかな論点の概要と勉強用の文献を示すだけにとどめる。
「批評の正当化の問題」についても扱わない。
観察できる事実
以下、ゲームの同一性に関連する素朴に観察できる事実(われわれがゲームをどのように扱っているかの実践)をいくつか示す。
事実①:ゲームのルールと「ガワ」の区別
パズルゲームのいちジャンルであるマッチ3のルールは、どれも大差ない。
マッチ3の古典:『7 Wonders』
マッチ3の名作:『Candy Crush Saga』
最近やってるマッチ3:『エスターバニーポップガール』
プレイの行為の中身も大差ない。
一方で、「ガワ」は明らかに異なる。『7 Wonders』はピラミッド[?]を作るという舞台設定のもとで宝石[?]を消すゲームであり、『Candy Crush』はピカピカした飴やお菓子を消すゲームであり、『ポップガール』はリボンやファブリックなどのかわいいアイテムを消すゲームである。
事実②:「ガワ」の重要さ、重要でなさ
有名な話だが、パズルゲームの『ぷよぷよ』は、当初は「ぷよ」がつながって消えるのではなく、人が手をつないで消えるという「ガワ」としてデザインされていたらしい(次頁の画像を参照)。
最終的には、RPG『魔導物語』のモチーフと組み合わせられて、「ぷよ」を魔法で消すという設定になった。敵キャラクターも登場する。
ゲームプレイのあり方としては、そうした「ガワ」の変化は重要ではない。「ガワ」がどうなろうが、『ぷよぷよ』のプレイの基本的なセオリーは同じままである。
一方で、ひとつのビデオゲーム作品として考えた場合、そうした「ガワ」の違いは明らかに重要である。
人の手をつなげるゲーム。人類愛!
スライムっぽい何かをつなげて消して気持ちいいゲーム。
「ぷよ」をつなげて消すという点は維持しつつ、『魔導物語』のキャラクターやモチーフを取り込んだゲーム。その後の『ぷよぷよ』の基本に。
事実③:媒体の重要さ、重要でなさ
ゲームを支える媒体(物理的な道具、素材)がゲームの同一性に関わるケースと関わらないケースがある。
ボードゲームやカードゲームでは、媒体が異なっても同じゲームと見なされることが多い(オンライン麻雀と物理牌での麻雀を区別したがる人は多いものの)。
将棋の駒の素材が上質な木であろうがプラスチックであろうが人間であろうがコンピュータ上のグラフィックであろうが、将棋は将棋のままである。
トランプの札の手触りや重さや裏面デザインがどうであろうが、札の種類と枚数が同じかぎりは、同じゲーム(ポーカーであれブラックジャックであれババ抜きであれ)ができる。
一方で、スポーツでは、媒体の違いは一般に重視される。場合によっては、道具の物理的特性が多少違うだけで別のゲーム扱いされることもある。
「媒体横断性」という概念
事実③は、ゲーム研究では「媒体横断性(transmediality)」という言い方で論じられる。
ボードゲームやカードゲームの大半は、媒体横断的なあり方、つまりその同一性にとって物理的な素材や道具が重要でないあり方をしている。
一方、おそらくすべてのスポーツは、媒体横断的でないあり方をしている。スポーツにとって、使われる道具や素材(ボール、フィールド、選手の身体、etc.)の物理的特性は決定的に重要だからである。
ビデオゲーム作品も、多くのケースでは媒体横断的でないだろう。『パックマン』のボードゲーム版は、どこまで行ってもビデオゲームの『パックマン』とは別のゲームである。とはいえ、完全にターン制のビデオゲーム作品は、ゲームとしての同一性を維持したまま、ボードゲームやカードゲームとして実装することが可能かもしれない。
媒体横断性と翻案
媒体横断性という概念は、ボードゲームやカードゲームの「ビデオゲームバージョン」が、そのゲームとしての同一性を損なわないことをうまく説明する。
ポーカーもソリティアもオセロも麻雀も、媒体横断性を持つがゆえに、その同一性を保ったままビデオゲームにすることができる。
同じく、媒体横断性という概念は、スポーツの「ビデオゲームバージョン」がその同一性を損なうことをうまく説明する。
サッカーや野球のビデオゲームは、どれだけ写実的に作ったとしても、サッカーや野球そのものではない。ボールやフィールドや身体の物理的特性は、ビデオゲームの媒体では実装しようがないからである(せいぜいのところ、精度の高いシミュレーションができるだけである)。
発展的な問題:媒体横断性の理論はどこまでを「同じ」と見なすのか
とはいえ、媒体横断性の考えを推し進めると、直観的にはまったく別のゲームに見える事例が同じゲームになってしまうという問題が生じる。
次のようなルールのゲームを考えよう。
ふたりのプレイヤーが交互に1から9までの数字を順番にひとつずつ取っていく。
それぞれの数は一回しか取れない。
合計して15になる3つの数を先に作ったほうの勝ち。
勝ちが決まらないまま全部の数を取り終えた場合は、引き分けになる。
このゲームのルールは、数学的な構造から言えば、いわゆる〇✖ゲーム(三目並べ)のルールと完全に等価である(図による証明は次頁)。
しかし、このゲームは〇✖ゲームとは明らかに別物だと言いたくなる気持ちもあるだろう。このような理論と直観の齟齬は、ゲームの存在論が解決すべき問題としてある。
1. 〇✖ゲームは3×3の9マスを使う。
2. その各マスに、縦1列、横1列、斜め1列の合計がそれぞれ15になるように整数を割り振る(左図の通り)。
3. この数字入りのマスの上で〇✖ゲームをプレイするとしよう。
4. 〇✖ゲームの個々の指し手は、1~9の数字を互いにひとつずつ選ぶ(ただしすでに選ばれた数字は選べない)こととして言い換えられる。例えば、中央に✖を置くことは5を選ぶことと等価である。
5. 〇✖ゲームの勝利条件は、それまでに自分がピックアップした任意の数字3つの合計が15になることとして言い換えられる。
6. というわけで、〇✖ゲームのルール全体は、1~9の数字を互いにひとつずつ選ぶ、それぞれの数は一回しか取れない、合計して15になる3つの数を先に作ったほうの勝ち、というルールと等価である。
※この例は『ハーフリアル』2章にある。図もそこから借りた。
ちょっと休み
「ルール/フィクション」という概念
事実①のような、ゲームやビデオゲームに一般に見られるルールと「ガワ」の区別は、ゲーム研究では「ルール/フィクション」や「ゲームメカニクス/フィクション」と呼ばれる。
この区別は、ゲーム(とくにビデオゲーム作品)のあり方や評価基準を考える上では必須である。
※「ルール/フィクション」の区別について深く知りたい場合は、以下を参照:
・『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』の「ルール」と「フィクション」の項目
・ユール『ハーフリアル』の3~4章
・松永『ビデオゲームの美学』の5章
フィクションの諸機能
ゲームにおけるフィクション(=ガワ)はさまざまな機能を持つ。
機能①:純粋に虚構世界上の事柄(キャラクター、ストーリー、舞台設定、etc.)を想像させる機能。
機能②:ルールの内容を伝達する機能。例えば、フィクションとしてマグマが描かれていれば、そこはルール上通れない(あるいは通るとダメージを食らう)場所であることがわかるなど。
機能③:ルールの抽象的な構造を何として解釈すべきかを指定する機能。例えば、RPGのキャラクターの諸属性を示すテキスト(「力」「素早さ」「知性」etc.)は、その変数を、キャラクターの筋力や頑丈さや俊敏さや知的能力をシミュレートするものとして解釈すべきことを教えてくれる。
機能④:純粋に装飾的な機能。『ぷよぷよ』の「ぷよ」など。
ゲームの同一性とフィクション
ゲームの同一性の判断において、フィクションの要素をどこまで重視するかしないかは、ケースバイケースとしか言いようがない。それは結局のところ、そのゲームにとって、フィクションが持つ機能がどこまで重要かそうでないかの違いである。
『スーパーマリオブラザーズ』にとっては、赤い帽子をかぶった口ひげのある中年男性がプレイヤーキャラクターであることはそれなりに重要だろうし、『Red Dead Redemption』が西部劇の世界を舞台にしていることは、その作品にとって決定的に重要だろう。
一方で、カードゲーム『ドミニオン』の舞台が中世風の世界から現代風の世界になろうがサイバーパンク風の世界になろうが、ルールが維持されているかぎりは、そのゲームの同一性にとって大きな影響はないかもしれない。
ビデオゲームにおけるフィクションの重要さ
一般にボードゲームやカードゲームでは、ゲームの同一性に関してフィクションの要素があまり重視されない傾向にある。
そもそもボードゲームやカードゲームには、フィクション要素をほとんど持たないものも多い(将棋のフィクション要素はないに等しい)。
それに対して、一般にビデオゲームでは、パズルゲームを除けば、フィクションの要素が重視される傾向にある。そうなった要因はいろいろ考えられるが、総じて歴史的な事情が大きいと思われる(ビデオゲームの起源のひとつとして、フィクション要素をフィーチャーするゲームの伝統があるから)。
リメイク作品の存在論
ビデオゲームのリメイク作品は、一般にオリジナルとは別作品扱いされる。言い換えれば、批評の対象としてオリジナルとは別物扱いされる。
リメイク作品の存在論は、おそらく、ポピュラー音楽の存在論の回で取り上げたカバーの存在論にかなり近い構造になる。それゆえ、ポピュラー音楽の存在論における「楽曲」と「トラック」に近い概念を導入したほうがいいかもしれない。
MODの実践
MODは、あるビデオゲーム作品に対して、ユーザーが、主にそのグラフィックや3Dモデルなどのアセットを入れ替えることで「ガワ」を大きく変える実践である。
MODの多くはフィクションのみを変更するものだが、場合によってはルールを変更するMOD(例えば、パラメーターの上限値を変える、コリジョンを変更して本来通れないところを通れるようにする、など)もある。
スピードランの実践
スピードランは、あるビデオゲーム作品のクリアタイムの早さを競う非公式の遊び方である。日本語だと「RTA(リアルタイムアタック)」と呼ばれる。
ケースにもよるが、多くのスピードランの実践は、そのビデオゲーム作品の本来のプレイとは明らかに別種のプレイをしていると言ってよい。
スピードランのように、本来のゴールとは別のゴールを目指すプレイは、「同じ作品をプレイしている」とはいいづらい。
続き
スピードランとは方向が違うが、ユーザーが目標とルールを勝手に追加する遊びとして好きな例:
『スーパーマリオ64』の1UPキノコ(公式ルールではボーナスアイテム)がマリオを追跡してくるという仕様を利用して、1UPキノコから逃げながら特定の目標を達成するという遊び方をしている。
遊びにパテントはない
有名な話:「オセロ」というゲームの名称は商標登録されており自由に使えないが、オセロのルールは自由に使える。オセロとまったく同じルールのゲームを作って売っても文句を言われないし、実際そうしたオセロのクローンゲームは世の中に大量にある(そうしたオセロクローンには、だいたい「リバーシ」という商標フリーの名前がつけられている)。
これはゲームのルールが、それ自体としては、著作権その他の知的財産権の保護対象ではないからである(少なくとも日本では)。
詳しめの解説サイト:ボードゲームの法的保護(著作権や知的財産権など)を考えてみた!
任天堂山内元社長の有名な発言:遊び方にパテントはないわけです
ゲームに関わる知的財産権保護の対象
映像、絵、デザイン、音楽、テキストなど、通常の著作権や意匠権の保護対象
コンピュータプログラム
特許権の保護対象(発明的な技術。ビデオゲーム関連の技術はたまに特許が取られる。)
商標権の保護対象
ビデオゲーム関連の訴訟の例
ビデオゲーム関連の訴訟は過去にいくつかあるが、だいたい著作権侵害のレベル(UIなどのガワのレベル)で戦っている。たまに商標権侵害や特許権侵害のレベルで戦うこともある。
釣りゲーム訴訟のケース
ティアリングサーガ訴訟のケース
というわけで、ビデオゲームのグラフィックを真似ると法的に怒られるが、ルールは基本的に真似し放題である。例えばスイカゲームのクローンゲームは、オセロのクローンゲームと同様に(グラフィックをそのまま流用するのでなければ)法的には問題ない。
... Nintendo issued a cease and desist notice regarding Mario Royale around June 21, 2019. In response, InfernoPlus removed the Nintendo-themed assets, replacing Mario with a generic character named "Infringio" and rebranding the game as Infringio Royale and later DMCA Royale. Despite these changes, Nintendo's lawyers reportedly continued to pressure InfernoPlus, stating that the game still infringed due to similarities in level design or core mechanics. InfernoPlus ultimately removed the game entirely from his website.
作品としてのゲームルール
法律上でゲームのルールという存在者がほぼ無視されているとしても、芸術存在論上はゲームのルールは重要である。というのも、ゲームのルールだけに注目する批評・鑑賞の実践は普通にあるから。その意味で、ゲームのルールは、それ自体として「作品」あるいは「作品の構成要素」と言って問題ない。
法的な実践も人間の諸々の実践のうちのひとつだということ、および、批評・鑑賞の実践と法的な実践は別物である(無関係ではないにせよ)ということを理解しましょう。
Scrapboxに期末レポートの提出要領のページを作りました。
課題、提出方法、提出期限などについて、各自で十分に確認してください。
卒業・修了年度(学部4回生、修士2回生)とそれ以外とで、提出期限が違っています。注意してください。
以下は発展的な学習用です。勉強したい人だけ読んでください。授業内では取り上げません。
スライド一旦おわり
複数芸術としてのゲーム
いくつかの論点
ゲームにおける作品とその事例※
あるゲーム(ビデオゲーム作品を含む)を鑑賞・批評するには、それを実際にプレイする必要がある。そこで経験の直接の対象になるのは、作品の事例としてのゲームプレイ(プレイスルーなどとも呼ばれる)である。そして、ひとつのゲームは通常何回もプレイすることができる。
それゆえ、ゲーム(ビデオゲームを含む)は複数芸術であり、かつ、ゲームにおける作品の事例は出来事であると言ってよい。この点だけ見れば、ゲームは音楽や演劇などの上演芸術に近い。
複数芸術については第2回授業のスライドを参照。
※以下の内容はGaut(2010)、Kania(2018)、松永(2018)におおむね基づく。
インタラクティブ性
一方で、ゲームには、音楽や演劇とは顕著に異なる特徴もある。それはインタラクティブであるという特徴だ。
インタラクティブ性の特徴づけについては諸説あるが、ベリス・ガウトによれば、おおむね次のように言える。
ある作品wはインタラクティブである = wの鑑賞者自身がwの例化を担い、かつ、その例化を通してwを鑑賞する
ゲームは、この意味でインタラクティブである。一方で、音楽や演劇は、この意味でインタラクティブではない。音楽や演劇の場合、鑑賞者自身が作品の例化(ようするに演奏や上演)を担うわけではないからだ。
ゲームと上演芸術の対比
対比のポイントは他にもたくさんありえる。
| 事例の数 | 事例の種類 | 例化の主体 | 事例間の相違 | 事例のあり方に対する例化主体の認識 | |
| 通常の上演芸術 | 複数 | 出来事 | 上演者 | 比較的小さい | あらかじめ想定している |
| ゲーム | 複数 | 出来事 | 鑑賞者 | 比較的大きい | あらかじめ想定していない |
事例間の相違が相対的に大きい
インタラクティブであるという特性のほぼ必然的な帰結として、ゲームはその事例(実際のゲームプレイ)がきわめて多様なあり方をする。それゆえ、一般的に言えば、(即興演奏を除く)楽譜にもとづく音楽の演奏や戯曲にもとづく演劇の上演と、ゲームのプレイは事例間の相違の程度が異なる。
相違がきわめて大きい出来事をはたして「同じ作品の事例」と言っていいのかどうか、微妙な点がある。
ゲーム批評の正当化が難しいという論点にもつながる。
プレイヤーはゲームプレイのあるべき姿を事前に把握しているわけではない
あるゲームのプレイヤーは、当のゲームの事例(ゲームプレイ)がどのようなものであるべきかをプレイをしている中で把握するのであり、プレイする前にあらかじめ把握しているわけではない(少なくとも完全に把握しているわけではない)。この点は、楽譜や台本を事前に見て、あらかじめ事例のあるべき姿を思い描ける演奏家や俳優とは異なる。
アンドリュー・カニアは、この理由で、ゲームが「上演のための作品」であることを否定している。カニアによれば、ゲームは上演者(performer)のために作られた人工物ではなく、探索的な鑑賞者のために作られた人工物である。
例化の主体と事例生成の仕方
ボードゲームやスポーツは例化の主体が人間(プレイヤーと場合によっては審判)だと言ってよいが、ビデオゲームの場合、例化の主体は人間(プレイヤー)と機械(コンピュータ)の両方になる(次の図を参照)。それゆえ、ビデオゲームは、機械の自動的な再生によって事例を生成する芸術(映画や録音音楽)と、人間の上演によって事例を生成する芸術(演劇や上演音楽)の両方の側面を持っている。
この点で、ビデオゲームには、インタラクティブであるというゲーム全般に言える特徴とは別に、それならではの存在論的な特徴がある。
図は松永「ゲームの何を保存する?」の発表資料から。
引用・参照したもの
吉田・井上・松永・ロート編『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ』フィルムアート社、2025年
今回の話に直接関わるのは「ルール」「フィクション」「メディア」あたりの項目
イェスパー・ユール『ハーフリアル』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2015年
2章:定義論、2章:媒体横断性、1, 3, 4, 5章:ルール/フィクションの区別
松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年
1章:定義論、2章:存在論、5章:ルール/フィクションの区別、7章:媒体横断性
松永伸司「ゲームの何を保存する? ゲームのアーカイブと芸術の哲学」発表資料、あいちトリエンナーレ2016レクチャープログラム、発表資料、2016年 https://researchmap.jp/zmz/presentations/14522176
Berys Gaut, A Philosophy of Cinematic Art, Cambridge UP, 2010.
基本的に映画の本だが、部分的にビデオゲームについて論じている。
Andrew Kania, "Why Gamers Are Not Performers" Journal of Aesthetics and Art Criticism 76, no.2 (2018), https://doi.org/10.1111/jaac.12451.
その他
ビデオゲーム批評の難しさについては、東京大学文学部美学芸術学研究室の2020年度卒論「ビデオゲーム批評の批評」がクオリティの高い議論をしている。非公開物だが研究室に行けば保存論文を見せてくれるらしい。
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スライドおわり