メディア文化学/美学美術史学(特殊講義)
月曜4限/第9回
松永伸司
2026.01.05
Scrapboxに期末レポートの提出要領のページを作りました。
課題、提出方法、提出期限などについて、各自で十分に確認してください。
卒業・修了年度(学部4回生、修士2回生)とそれ以外とで、提出期限が違っています。注意してください。
次回授業(再来週の1/19)はゲストを呼ぶ回です。
通常の授業スライドはないので、教室に来ないとリアクションペーパーが書けません。普段スライドだけを見てコメントを書いている勢も、次回は教室に来ていただければと思います。
フィクショナルキャラクターの実在論と反実在論の対立をなんとなく理解する(そういうのがあるんだなあでOK)。
フィクショナルキャラクターを取り巻くいろいろな文化的実践に注目しながら、フィクショナルキャラクターの存在論についてもう少し面白い議論ができないかを考える。
今回の授業での最重要の概念は「反実仮想」。これは因果性を説明する際に持ち出される概念だが、フィクショナルキャラクターの実在をめぐってその因果性が決定的な問題になるため、「反実仮想」の概念が決定的に重要になる。この概念は必ず覚えて帰ること。
1. 前提の整理と素朴な事実
2. キャラクターの反実在論 vs. 実在論
3. タイプとして、個別者として
文字数が多くなるのを避けるために、大半の箇所で「フィクショナルキャラクター」を「キャラクター」と略します。
「フィクショナルキャラクター」とは別の意味での「キャラクター」や「キャラ」(たとえば「キャラを作ってる」というときなどの「キャラ」)の話は一切しません。
フィクショナルキャラクターとはなんだ
素朴な事実
ひとまずの特徴づけ
雑に言えば、フィクショナルキャラクターとは、フィクション作品の登場人物(あるいは人間に類する存在者)のこと※。
ここで言う「フィクション作品」は、文学作品にかぎらない。演劇、映画、マンガ、アニメーション、etc.を含む。
※フィクションの哲学では、フィクション作品に登場する場所や物や出来事などもすべて「フィクショナルキャラクター」と呼んでひとまとめにすることがあるが、今回はややこしい話はしたくないので、登場人物に限定する。
例示①
ハムレット、ドン・キホーテ、シャーロック・ホームズ、グレゴール・ザムザ、金田一耕助、ハリー・ポッター、チャーリー・ブラウン、ドラえもん、フグ田サザエ、金田正太郎、ヤン・ウェンリー、フリーザ、江戸川コナン、マキマ、ヒンメル、etc.
物語を背負っていないフィクショナルキャラクター
いま示したのは、ストーリーのあるフィクション作品の登場人物であり、いわば「物語を背負っている」キャラクターである。
一方で「物語を背負っていない(あるいは少なくとも物語ぬきに自立している)」キャラクターもいる。
たとえば、グッズ専用のキャラクター、テーマパークだけのキャラクター、マスコットキャラクター、etc.
このタイプのキャラクターは、イラストレーション、ぬいぐるみ、着ぐるみなどとして視覚的に表現されることが多い(文章だけということはまずない)。
例示②
キティ・ホワイト、シナモロール、くまモン、オル・メル、ミャクミャク、ラブブ、エスターバニー、etc.
もともと物語を背負うかたちで登場したキャラクターが、物語を背負っていないタイプのあり方に近くなるケースもある。
ムーミン、スヌーピー、ミッキーマウス、etc.
逆に、もともと物語を背負わないかたちで登場したキャラクターについての物語があとから作られることもある。
いくつかの重要な補足
ここでは、ひとまず個体(個別者)としてのキャラクターのみを考えている。種類としてのキャラクター(ユニコーン、ドワーフ、種族としてのピカチュウなど)については、あとで少し触れる。
キャラクターには固有名が付いていることが多いが、「そのキャラクター」「あいつ」として個別化・同定できるなら固有名は必須ではない。
たとえば、『羅生門』の下人、「団長の手刀を見逃さなかった人」など。
いわゆるモブキャラは微妙。個別化されているモブとそうでないモブがいる。
実在の人物がフィクション作品に登場する場合(大河ドラマなど)、その人物をフィクショナルキャラクターにカウントするか否かはややこしい問題である。「そうしたフィクション作品は、たんに実在の人物について(フィクショナルなことを)述べているのであって、新しいキャラクターの存在を導入する必要はない」とする論者も多い。ただかなり微妙かつハイコンテクストな論点であり、今回はスルーする。
いくつかの重要な補足:続き
神話をフィクションにカウントするか否か(それゆえたとえばゼウスをフィクショナルキャラクター扱いするかどうか)もかなり微妙な話。プラトンの作品ような対話篇がフィクションかどうかもかなり微妙。
面倒な話はしたくないので、どちらも今回は扱わない。
理論上の措定物は、フィクショナルキャラクターとは別物とされるのが普通。たとえば、かつて仮説上の存在として想定されていた惑星ヴァルカン(太陽系において水星の内側の軌道を公転する惑星)は結局実在しなかったが、実在しなかったからと言ってヴァルカンがフィクショナルキャラクターになるわけではない。
歴史記述はフィクションではない。歴史記述が嘘や誤りや歪曲を含むことは普通にあるが、それを「フィクション」と呼ぶ言葉づかいは、物事を解像度高く理解することにとって害悪なので、いますぐやめたほうがよい。
理論が説明すべきこと
これまでの回と同様に、存在論の理論が説明すべき(あるいは話の前提とすべき)素朴な事実をはじめに示しておく。
以下で示すのは、フィクショナルキャラクターを取り巻く文化的実践の中で、われわれがそれをどのような存在者として扱っているか、あるいはそれについてどのように語っているかについての、普通に観察できる事実である。
事実①:キャラクターとキャラクターの表象の区別
キャラクターは、それを表す絵や文や名前そのものではない。イラストやフィギュアや着ぐるみやぬいぐるみも、それ自体はキャラクターではない。それらは、キャラクターの表象(キャラクターを表すもの)である。
ある種のファンダムを揶揄するミームとして「絵じゃん」というのがあるが、文字通りには絵ではないからこそ、揶揄として機能している。
ちなみに「二次元キャラ」という俗語はこの点できわめてミスリーディングなので、言葉の罠にはまって混乱したくないのなら、いますぐ使うのをやめたほうがよい。二次元キャラは、文字通りには平面ではない。
事実②:キャラクターの非実在
キャラクターは、普通の意味ではこの世界に実在しない(実在の人物がフィクション作品の登場人物になるケースは除く)。少なくともわれわれは、実在の人(たとえばドナルド・トランプ)が存在するというのと同じ意味では、キャラクターは存在しないと考えている。
仮にシャーロック・ホームズがこの世界に実在する(していた)とまじめに主張する人がいたら、その人はホームズ作品の読み方を間違えている(フィクションをノンフィクションとして読んでいる)と言えるだろう。
もちろんキャラクターの表象(絵、文、名前、着ぐるみ、フィギュア、etc.)は、普通の意味で実在する。
事実③:キャラクター間の区別
キャラクターはすべて実在しないにもかかわらず、われわれは個々のキャラクターを区別する。
シャーロック・ホームズとエルキュール・ポアロは、別のキャラクターである。
事実④:キャラクターへの性質帰属
キャラクターはすべて実在しないにもかかわらず、われわれは個々のキャラクターに性質を帰属させる(「このキャラクターはしかじかである」という述定ができる)。
シャーロック・ホームズ、エルキュール・ポアロ、金田一耕助はいずれも探偵であり、それぞれイギリス人、ベルギー人、日本人である(全員イギリスにもベルギーにも日本にもいたことがないにもかかわらず!)。
事実⑤:キャラクターの作品横断的なあり方
物語を背負ったキャラクターは、通常は特定のフィクション作品の世界に縛られていることが多いが、場合によっては、作品横断的に登場することもある。
たとえば、シャーロック・ホームズが「アルセーヌ・ルパン」シリーズに登場するケース。
また、同一の作品に登場するかどうかとは関係なく、異なる作品に登場するキャラクター同士を比較することができる。
たとえば、「ホームズよりもポアロのほうが切れ者だ」などと言ったりする。
事実⑥:キャラクターへの感情
われわれは、実在の人に対するのと同じような(少なくとも一見同じに思えるような)感情を、キャラクターに対して向けることがある。
たとえば、アンナ・カレーニナをかわいそうに思い、骨川スネ夫にイラっとし、海原雄山に憧れる。
事実⑦:キャラクターの「本当」についての論争
キャラクターは普通の意味では実在しないにもかかわらず、われわれは、そのキャラクターの「本当の」あり方について語り合うことができる。さらに、語りに対して正誤の判定もしている(少なくとも語りの正誤をめぐって論争することができる。公式の語りを否定するのがいわゆる「解釈違い」である)。
古典的な例:飛影はそんなこと言わない
最近見たキャラクター語り:「映画デートでのマキマさんのこの涙を嘘泣きだと思う人とは多分感性が絶望的に合わない。」
事実⑧:フィクション外存在としてのキャラクター
ここまでは、ほぼすべてフィクション内の存在者としてのキャラクターに言及するケースだったが、フィクション内の存在者に言及しているとは言えなさそうなケースもある。典型的には、そのキャラクターの「つくり」に言及するケース。
キャラクターの由来:「シャーロック・ホームズはコナン・ドイルの知人の医者をモデルに作られた。」
キャラクターの初出:「金田一耕助は『本陣殺人事件』で初めて登場した。」
キャラクターの評価:「海原雄山のキャラクター設定はステレオタイプ的だ。」
理論が説明すべきこと:まとめ
事実①:キャラクターとキャラクターの表象の区別
事実②:キャラクターの非存在
事実③:キャラクター間の区別
事実④:キャラクターへの性質帰属
事実⑤:キャラクターの作品横断的なあり方
事実⑥:キャラクターへの感情
事実⑦:キャラクターの「本当」についての論争
事実⑧:フィクション外存在としてのキャラクター
ちょっと休み
反実在論と実在論
それぞれの強みと弱み
2つの派閥
フィクショナルキャラクターの存在論は、分析哲学系の言語哲学や形而上学の分野で、かなりの議論の蓄積がある。言語哲学の問題になるのは、空名(empty name)に指示対象はあるのか(あるとすれば何なのか)という問題の一種として扱われるから。
そこでは、大きく分けて次の2つの派閥があってバトルしている。
反実在論(anti-realism):いかなる意味でもキャラクターは存在しない。われわれがあたかも存在しているかのように言っているだけ。
実在論(realism):実在の人間とは異なる仕方ではあるが、ある意味でキャラクターは存在する。
以下、それぞれの派閥の代表的な立場と、その背後にある動機を簡単に紹介する。
反実在論の動機と課題
反実在論は、フィクショナルキャラクターは普通の意味では実在しない、というごく常識的な直感を大事にした考え方。
ただ、それが存在しないとすると、存在しないものについて考えたり語ったり感情を抱いたりするわれわれの(ある意味でへんてこな)実践をどう説明するかという課題が生じる。
加えて、フィクショナルキャラクターが鑑賞者に対して因果的な力を持ちうる(たとえば感情を動かす)という事実を説明するという課題がある。実在しないものは常識的に考えれば因果関係の項になりえない。
反実在論:ふり説
反実在論の代表的な立場は、われわれのキャラクターについての語りは、一種のふり(pretense)やごっこ(make-believe)であり、まじめな発話ではないとする立場※。
ふり説によると、われわれの実践はおおむね次のように説明される。
キャラクターの名前の使用は、文字通りに何かを指しているのではなく、何かを指すふりをしているにすぎない。
キャラクターについての語りは、「そうした対象が存在し、その対象についてしかじかのことが事実であると想像せよ(本当は事実ではないし、その対象も存在しないけど)」というルールを持った一種の「ごっこ」の中でなされているだけである。
※細かいことを言えば、サール流の「ふり」として説明するか、ウォルトン/カリー流の「メイクビリーブ」として説明するかで対立していたりもするが、ざっくり言えばどちらも似たような立場である。
実在論:抽象的人工物説
一方の実在論にはいろいろなバリエーションがあるが、ここ20年くらいで主流になっている立場は、エイミー・トマソンが提案した抽象的人工物説。
この立場によると、フィクショナルキャラクターは、フィクション作品それ自体と同じような一種の抽象的な対象として実際に存在する。
つまり、戯曲『ハムレット』とキャラクターのハムレットは、存在者としては同じ水準のものである。
それらは、制度的な対象(たとえば貨幣や組織)が存在すると言えるのと同じ意味で、存在している(われわれの集団的な志向性によってその存在が支えられている)。
抽象的人工物説の動機
抽象的人工物説をとる最大の動機は、フィクション外存在としてのキャラクターに言及するケース(先のリストにおける事実⑧)をシンプルにすっきり説明できるという点にある。
存在するものについてわれわれが語ることはとくに不自然ではないので、反実在論のように無理をして説明をひねり出す必要性は(少なくとも一見)生じない。
ただし、抽象的人工物説でも、通常の意味での反実仮想(因果性)が成り立つかどうかがあやしい。反実仮想(因果性)の成立可能性の問題は、フィクショナルキャラクターの存在論にとって、実在論・反実在論のいずれにとっても解決が難しい問題としてある。
抽象的人工物説の課題
とはいえ、抽象的人工物説にも課題がある。フィクション外存在としてのキャラクターについての語りはシンプルに説明できるが、フィクション内存在としてのキャラクターについての語り(先のリストにおける事実④⑦あたり)は逆にシンプルに説明できないのである。
われわれは、シャーロック・ホームズは人間であり、ロンドンに住むイギリス人であり、探偵であり、これこれの事件を解決し、といった仕方で、具体的な性質をホームズに帰属させる。フィクション内では、ホームズは具体的な存在者であって、抽象的な存在者ではない。フィクション内存在としては、どう考えても作品や貨幣や組織と同じ種類の対象ではない。
結局、トマソンの抽象的人工物説も、フィクション内的な語りについては「ふり」や「ごっこ」で説明することになる。
反実在論 vs. 実在論の対照表
次頁に、反実在論(ふり説)と実在論(抽象的人工物説)それぞれの主張と強み・弱みを整理した表を載せた。
これは、フィクショナルキャラクターの存在論のサーベイ論文(Friend 2007)をChatGPTに読ませて作ってもらった表を一部改変したもの。
専門的に言えば微妙な箇所はあるが、大まかに見ればそれなりに整理されていると思われる。
| 観点 | 反実在論 | 実在論 | 関連する事実 |
|---|---|---|---|
| 基本主張 | キャラクターは存在しない | キャラクターは存在する | ② |
| どのような存在者か |
- | 抽象的な対象 | ② |
| フィクション内的語りの説明 例:「ホームズはロンドン住まいの探偵だ」 |
文字通りには偽 ごっこの中で真 |
文字通りには偽 ごっこの中で真 |
④⑦ |
| フィクション外的語りの説明 例:「ホームズのモデルは実在の医者だ」 |
説明が難しい | 文字通りに真 | ⑧ |
| キャラクターの個別化の説明 例:ホームズとポアロの区別 |
ごっこの中で区別 | 実際の制作プロセスによって区別 | ③ |
| 作品横断的な比較の説明 例:「ホームズよりポアロのほうが切れ者だ」 |
説明が難しい | 説明が難しい | ⑤ |
不毛な論争との付き合い方
サーベイ論文の著者であるステイシー・フレンド自身も皮肉っぽく述べているが、キャラクターの「反実在論/実在論」論争は、それ自体としては不毛な面がある。結局、一長一短でどちらかにすぐ軍配が上がるわけでもなく、どちらの立場も細かい反例に対処すべくどんどん複雑なものになっていくだけだからだ。
おそらく、この手の哲学的な論争の意義は、最終的な勝ち負けを決する点にあるのではなく、むしろわれわれの実践がどういうあり方をしているかが次第に明らかになっていく点にある。実際、前頁の表に示されているような諸々の「観点」、つまり理論が説明すべき事実は、多くが論争を通じて徐々に明確化されていったものだ(表ではごく一部しか載せていない)。
不毛な論争との付き合い方:続き
というわけで、ガチの分析形而上学に関心がある人以外は、「そういうバトルがあるんだなあ」というなんとなくの理解をしつつも、キャラクターをめぐるわれわれの実践がどういうあり方をしているか、またこれまでに挙げられたもの以外にも注目して論じるべき観点がないかどうか、といった方向で考えていくことをおすすめする。
ちょっと休み
タイプとしてのキャラクター
初音ミクのケース
ぬいぐるみと愛の哲学
個別者ではないキャラクター
ここまでは、(それが存在するかどうかはさておき)個別者として(つまり「一人」として)カウントされるようなフィクショナルキャラクターのみを扱ってきた。
一方、フィクショナルキャラクターには、個別者というより、「種類」や「タイプ」と呼びたくなるような水準もある。いくつかバリエーションを示しつつ、存在論的に興味深い論点がないか考えよう。
生物種としてのキャラクター
英語の「unicorn」は、「horse」と同じく一般名詞。「a unicorn」で一頭のユニコーンを指す。ようするにユニコーンは、馬と同じく生物種(であるかのようにわれわれが語るもの)である。
架空の生物種は数多い(実際の神話や伝承の由来を持つものも多いが、その点は今回は気にしない)。ドラゴン、ドワーフ、エルフ、ゴブリン、河童、サイヤ人、etc.
「ポケモン」シリーズでは種族と個体が区別される。「ピカチュウ」は種族名である。ただ、アニメの『ポケットモンスター』ではピカチュウの個体を「ピカチュウ」と呼んでいて、あたかも個体名のようになっていてまぎらわしい。いずれにせよ、ピカチュウというキャラクター自体はユニコーンと同様の存在者である。
個別的なキャラクターとの違い?
個別者としてのキャラクターの存在論は、言語哲学的なアプローチでは、単称名の意味の問題として扱われる。「ペガサス」や「ヴァルカン」のような指示対象が存在しない単称名を「空名(empty name)」というが、「シャーロック・ホームズ」や「ドラえもん」という名前もその一種というわけだ。
一方で、言語哲学では、(個別者ではない)種類や集合はふつう述語の意味として扱われる。ということは、「ドラゴン」や「ピカチュウ」のようなキャラクターの種類の名前は、述語と同等なのか。しかし同時に、種類としてのピカチュウと個体としてのピカチュウとで、キャラクターとしての存在の仕方にそこまで大きな差がないように思えるという直観もある。
というわけで、種類としてのキャラクターについては掘り下げるべき問題がある。
ストックキャラクター
フィクショナルキャラクターの類型のことを「ストックキャラクター」という。いわゆる「お約束」のキャラクターのあり方である。
ストックキャラクターは古今東西のフィクションに見られるが、そのレパートリー(どういうストックキャラクターの引き出しがあるか)はジャンルや伝統ごとに変わる。
ストックキャラクターの例:
うわの空の教授、コンパニオンアニマル、へそ曲がり老人、囚われの姫君、ドラゴンレディ、武道の老師、エブリマン、堕落した英雄、ファム・ファタール、心優しい巨人、トリックスター、貴族のボンボン、代官と越後屋、悪役令嬢、etc.
ストックキャラクターにおけるタイプとトークン
ストックキャラクターもまた、一種の類型であるという点で、個別者としてのキャラクターとは存在のレベルが異なる。
「マリオ」シリーズに登場するピーチ姫は、多くの作品においてストックキャラクターとしての囚われの姫君(damsel in distress)に当てはまるが、この場合、囚われの姫君とピーチ姫の関係は、タイプとトークン(類型とその個別例)の関係である。
というわけで、キャラクターの存在論は、キャラクターにもタイプ/トークンの関係がありえることを説明できなければならない(個々のトークンは通常の意味では実在しないにもかかわらず!)。
余談
東浩紀の「データベース消費」も日本のオタク文化におけるストックキャラクターの受容のあり方として理解できるかもしれない。とはいえ、ストックキャラクターの実践自体は、ポストモダニズムの特徴でもなんでもなく、およそ通俗的な(娯楽志向の強い)フィクション作品にはつねに見られる。
初音ミクの二面性
タイプ/トークンという観点から見て興味深い実践の例として、初音ミクの扱われ方がある。
仮に初音ミクがキャラクターの側面だけを持つ存在なら、固有名を持つ他のキャラクターと同じく個別者としてのキャラクター(であるかのようにわれわれが語るもの)と考えて問題ないだろう。その場合それは、「青緑色の髪をツインテールにした、しかじかの姿かたちを持つキャラクター」でしかない。
しかし初音ミクには、キャラクターとしての側面だけでなく、音声合成ソフトウェアとしての側面もある(というより本来はそちらが主たる側面である)。この両面があるおかげで、文化的実践上、初音ミクはかなり特異な存在者として扱われているように見える。
ソフトウェアとしての特徴
ソフトウェアは当然ながら道具である。初音ミクの場合、その主な使われ方はDTMの道具のひとつとしてだろう。そして当然ながら、道具は個々のユーザーの個別の使い方によって、その実際の働き方が変化する。
加えて、初音ミクは(少なくとも他のボーカロイドに比べれば)楽器としての可塑性が高いということがしばしば指摘される。結果として、(キャラクターの見た目はともかく)音声合成ソフトウェアとして捉えたときの性質が、そこまで固定していないと言われる。
音楽的同位体はそのキャラクター性(≒特徴)を、公式によって保存されている。ユーザー視点で言えば、公式という権威によって、キャラクター性が有限化されていると言える。〔中略〕
一方で、初音ミクはキャラクター性を持たない。複数のライブラリ、ベロシティ、ダイナミクス、ジェンダーファクター、ブライトネスなどによって無限に細分化される(音楽的同位体とは対照的に)。
正確に言ってみればこうだ。初音ミクは「公式によって強く有限化された」キャラクターを持たない。ユーザーごとにその姿を強く変えるからだ。
だからこそ、初音ミクは「うちのミクさん」としての多元性に開かれる。僕はこの概念がとても好きだし、僕自身それに立脚しつつ、常に擁護していきたい価値観である。
「うちのミクさん」と初音ミクの多数性
ボーカロイドの道具としての可塑性が低ければ、個別的なキャラクターとしての性質が安定することになる。note記事の著者が言う「キャラクター性が有限化されている」とは、そういうことだろう。そういうケースでは、「大勢のボカロPが、ひとりのボーカロイドに歌わせている」という関係になるかもしれない(ちょうど、ひとりの歌い手にいろんな作曲家が楽曲を提供するように)。
一方、初音ミクではそうはならないというのが、note記事の著者の主張だ。それは道具としての可塑性があり、それゆえ「ユーザーごとにその姿を強く変え」、結果として「初音ミクは「うちのミクさん」としての多元性に開かれる」。つまり、同じ初音ミクを使いながらも、ユーザーごとに異なる歌い手、異なる多数の個別的キャラクターがいるという関係になるという主張だ。
続き
この一対多の関係、つまりひとつの音声合成ソフトウェアおよびキャラクターとしての初音ミクと、多数の「うちのミクさん」の関係は、タイプ/トークンの関係として自然に説明できるように見える。
この説明によれば、個々の「うちのミクさん」は、個々のボカロPが当の音声合成ソフトウェアを使って作った個別の楽曲およびそこから想像される個別のキャラクター(初音ミクトークン)であり、初音ミクそれ自体は、そうした諸トークンが属するタイプ(初音ミクタイプ)である、ということになる。
個別者としての初音ミク
一方で、初音ミクが個別者として扱われる(少なくともそのように見える)実践もある。
たとえば、初音ミクが超歌舞伎に(初音ミク役とその前世役で)出演するというとき、そこではタイプとしての初音ミクが想定されているわけではないだろう。
それは単純に俳優のポジションであり、俳優は当然ながら個別者である。
というわけで、同じキャラクターについて、それを個別者として扱う実践と、タイプとして扱う実践がそれぞれ別にあるというかなり奇妙なことになる。いずれのケースでも、初音ミクは(ソフトウェアとして以外には)通常の意味では実在しないにもかかわらず、である。
余談
初音ミクと「結婚」した人のツイート:「私は初音ミクを独占しようといった考えはありません。我が家のミクさんと結婚する、という認識でいます。それと「ミクは俺の嫁」というフレーズは私も好んでは使いません。」
個人的なエピソード
イケアに行ったときに、大量に積まれているトラのぬいぐるみ(1500円くらい)が刺さってしまって欲しくなった。しかし、何十個も積まれている中からどれかひとつを選ぶということができず、結局買わずに帰ってしまった(大量に積まれているのを見ていたたまれなくなったのもあるが)。
思い返すと、ぬいぐるみのタイプに惹かれたものの、その諸トークンのうちのどれを選ぶかという段になって、今後ともに過ごすことになる個別者をひとつだけ選ぶという発想になってしまい、どれかひとつを決定することができなかったということだったと思われる。
キャラクターの存在論からは少し離れる話題ですが、時間が余ったら取り上げます。
愛の理由
愛の哲学(philosophy of love)において、愛の理由、つまり「その相手を愛するのはなぜか」という問いに対する答えには、少なくとも2つの答え方があると言われる(愛に理由などない説もある)。
内在的性質:相手が持つ性質(外見のよさ、知性、優しさ、ユーモア、etc.)を理由にする
共有された歴史:自分が相手とともに過ごした時間の価値を理由にする
どちらの理由も愛の正当化にとって不十分だとされるが、とくに内在的性質が愛の理由になるということを否定したくなる事実(愛をめぐるわれわれの実践)がある。
内在的性質を愛の理由と考えることで生じる問題
上位互換問題:
愛の理由として持ち出される性質(外見のよさ、知性、優しさ、ユーモア、etc.)は、通常はその人以外も持ちうるものであり、しかもそれらをより優れた度合いで持つ別人がつねに想定できる。それゆえ、もしそれらが愛の理由になるなら、よりよい性質をもつ相手に乗り換えること(trading up)が合理的な行動になる。
しかし、別人との交換可能性を受け入れる態度は、われわれが考える愛(少なくともわれわれが「本当の愛」と呼ぶ態度)とは両立しない。
代替可能性問題:
もし愛の理由が内在的性質だけなら、相手の完全なクローンでもまったく問題ないことになる。だが、クローンでもよいとする態度をわれわれは「愛」とは呼ばない。
続き
存在論の観点から考えると、内在的性質を愛の理由にすることに対する拒否感は、愛の対象はタイプ(普遍者)でなく個別者である(あるいはそうあるべきである)という価値観のあらわれとして説明できるだろう。
ぬいぐるみの選べなさ
量産品のぬいぐるみは、当然ながらタイプ/トークン関係がある存在者であり、かつその購入者は、タイプの性質に惹かれて選ぶのが普通である(少なくとも買うかどうかを決める段階では、個別のトークンごとの差異を気にするわけではない)。
一方で、ぬいぐるみは愛の対象でもある。ぬいぐるみを大事にする人は、およそ個別者としてのそれを大事にする傾向にあるだろう。
というわけで、冒頭の個人的なエピソードは、タイプに対して魅力を感じることと、そのうちのどれかひとつの個別のトークンを(この先の未来の)愛の対象として選び取る(そして他のトークンを選ばない)こととのあいだで、欲求が引き裂かれてしまったケースとして説明できるかもしれない。
余談:マッチングアプリとコンフルエントラブ
コンフルエントラブ(confluent love)は、ロマンティックラブに対置される概念。ロマンティックラブのように永続的な愛の関係ではなく、その場その場で流れが合流するように成立する愛の関係を指す。相手の代替可能性を許容する愛のかたちとして捉えられることが多い。
マッチングアプリとコンフルエントラブの相性のよさを示している社会調査系の論文(宮田・石原「マッチングアプリの利用拡大と親密性の変容」)から引用:
〔インタビュー対象者の発言〕あと,検索機能使ってればですけど,もう初めからカテゴライズされてるじゃないですか。こういう特徴を持っている男たち集めてみました,みたいな。リアルだとそうじゃないのでね~。うん。
以下の2項目に関して,マッチングアプリの利用経験がない人よりもある人の方が当てはまると回答していることが有意に示された。
S1 私は,現在の恋愛関係を,他のあり得る関係と常に比べている
S3 私は,別の相手との関係の方が幸せかもしれないと思う
フィクショナルキャラクターの存在論のサーベイ論文
Stacie Friend, "Fictional Characters," Philosophy Compass 2, no. 2 (2007): 141–156.
今回の反実在論/実在論の箇所は、このサーベイ論文にかなり依拠している。ただいきなり読むのはハードルが高い。
入門用の文献
倉田剛『現代存在論講義II』新曜社、2017年
後半にフィクショナルキャラクターの話がある。抽象的人工物説も紹介されている。
藤川直也「直接指示論とフィクションにおける名前」『哲学論叢』35号、2008年
言語哲学的なアプローチでのフィクショナルキャラクターの存在論。
その他キャラクター関係
松永伸司「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』1巻2号、2016年
今回は取り上げなかったが、部分的に存在論に関わる話になっている。大まかな内容は前期の授業のスライドを参照。
「キャラクター」と一口に言うが、物語世界上のキャラクターのレイヤーとは別に、実写映画における俳優に相当するキャラクターのレイヤーもあると考えるといろいろ見通しがよくなるよ、という論文。
愛の哲学のサーベイ論文
Aaron Smuts, "Normative Reasons for Love, Part I & II," Philosophy Compass 9, no. 8 (2014): 507–526.
愛の理由についてはこの論文(とくにpart II)を参考にした。いきなり読むのはハードルが高いが、ChatGPTに要約させるだけでもそれなりに勉強になる。
愛の哲学の入門用
源河亨『愛とラブソングの哲学』光文社、2023年
前半で愛の哲学の基本トピックを紹介している。ただ愛の理由についての記述は薄い。
R. ハルワニ『愛・セックス・結婚の哲学』 江口聡・岡本慎平監訳、名古屋大学出版会、2024年
1~2章で愛の理由や愛の対象の話がされている。
Scrapboxに期末レポートの提出要領のページを作りました。
課題、提出方法、提出期限などについて、各自で十分に確認してください。
卒業・修了年度(学部4回生、修士2回生)とそれ以外とで、提出期限が違っています。注意してください。
次回授業(再来週の1/19)はゲストを呼ぶ回です。
通常の授業スライドはないので、教室に来ないとリアクションペーパーが書けません。普段スライドだけを見てコメントを書いている勢も、次回は教室に来ていただければと思います。
スライドおわり