系共通科目(メディア文化学)講義A
月曜4限/第12回
松永伸司
2024.07.22
SlidoのリンクはScrapboxにあります。
前回のリアクションペーパーへの応答もScrapboxにあります。
作成中です。
🙇
今回は去年のスライドの使い回しのため、レイアウトなどがいつもと違っています。
違和感があるかもしれませんが、ご了承ください。
「社会反映論」と呼ばれるタイプの発想が、かなり広く見られる(そして誰もが思いつく)ものであることを知る。
社会反映論の論証の構造を理解する。そのために、科学哲学のごく初歩的な知識をおさえる。
社会反映論をまともな研究として成り立たせるのは、ハードルが高いことを理解する。
1. 社会反映論はどこにでもある
2. 帰納とアブダクション
3. 社会反映論の論証構造
社会反映論の例
社会反映論の特徴づけ
宇野『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫版)から引用
以下引用(17–19頁):
そして、70年代以降の国内においてもっとも大きくこの状況が進行したのが、1995年前後であるとされる。〔改行〕この「1995年前後」の変化はふたつの意味において性格づけられる。それは「政治」の問題〔…〕と、「文学」の問題〔…〕だ。〔改行〕前者は、この時期がバブル経済崩壊を発端とするいわゆる「平成不況」の長期化が決定的になり、戦後日本という空間を下支えしてきた経済成長という神話が崩壊したことを意味する。つまり、「がんばれば、豊かになれる」世の中から「がんばっても、豊かになれない」世の中への移行である。
後者は、1995年に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件に象徴される社会不安を意味する。〔…〕ここに見られるのは「がんばれば、意味が見つかる」世の中から、「がんばっても、意味が見つからない」世の中への移行である。
引用の続き
社会的自己実現への信頼が大きく低下した結果、「~する」「~した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく、「~である」「~ではない」こと(状態)を、アイデンティティとする考え方が支配的になる。ここでは自己実現の結果ではなく、自己像=キャラクターへの承認が求められる。問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」ことで解決が図られる。
私が「古い想像力」として位置づけるのは、この90年代後半的な社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力である。
この「古い想像力」を代表する作品としては、1995年から96年に放映されたテレビアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』が挙げられるだろう。
引用の続き
従来のロボットアニメがそうであったように、「ロボットに乗って活躍すること」は父親に象徴される社会に認められること、つまり「社会的自己実現による成長」の暗喩に他ならない。
だがこの物語はそうは進まなかった。物語の後半、碇シンジ〔=『エヴァンゲリオン』の主人公〕は「エヴァ」〔=主人公が乗るロボット〕に乗ることを拒否して、その内面に引きこもり、社会的自己実現ではなく、自己像を無条件に承認してくれる存在を求めるようになる。そう、ここには「~する/~した」という社会的自己実現ではなく、「~である/~ではない」という自己像(キャラクター)の承認によるアイデンティティの確立が明確に選択されているのだ。
そして、このシンジの「引きこもり」気分=社会的自己実現に拠らない承認への渇望が、90年代後半の「気分」を代弁するものとして多くの消費者たちから支持を受け、同作を90年代カルチャーにおいて決定的な影響を残す作品に押し上げた。〔引用終わり〕
宇野『ゼロ年代の想像力』の別の箇所から
以下引用(21–27頁):
だが2001年前後、この「引きこもり/心理主義」的モードは徐々に解除されていくことになる。簡易に表現すれば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ、小泉純一郎による一連のネオリベラリズム的な「構造改革」路線、それに伴う「格差社会」意識の浸透などによって、90年代後半のように「引きこもって」いると殺されてしまう(生き残れない)という、ある種の「サヴァイヴ感」とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめたのだ。〔…〕
この「サヴァイヴ感」の生んだ想像力が〔…〕「新しい想像力」たちである。私が引く一本の線は、この2001年に引かれることになる。
たとえば1999年に発表された高見広春の小説『バトル・ロワイヤル』は、こういった「ゼロ年代」のモードを先取的に描いた作品だと言える。
引用の続き
90年代の「古い想像力」を体現する作品が『新世紀エヴァンゲリオン』ならば、こうしたサヴァイヴ系に象徴されるゼロ年代の想像力を体現する作品はなんだろうか?〔改行〕それはおそらくヒットの規模と作品の内容から考えて、大場つぐみ・作、小畑健・画による漫画『DEATH NOTE』(2003~06年連載)だろう。『DEATH NOTE』は〔…〕部数の上昇スピード、メディアミックスによる「普通は漫画を読まない人・年代」への波及力を考えればまさに時代を代表する「ゼロ年代のエヴァンゲリオン」に位置づけられる。〔…〕
夜神月〔=『DEATH NOTE』の主人公〕は碇シンジと同等に、いやそれ以上に、「社会」を信用していない。〔…〕それまでの社会(のルール)が壊れたことに衝撃を受けて引きこもるのが碇シンジなら、社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築していこうとするのが夜神月なのである。まさに、ゼロ年代の「サヴァイヴ感」とその対処法としての「決断主義」的な傾向を体現する作品だと言える。〔引用終わり〕
『ゼロ年代の想像力』の引用した箇所の議論の構造
議論の構造を大まかにまとめると:
~年代は、これこれのことが起きた時代である。
その年代を支配していたメンタリティはこれこれである。
その年代のメンタリティにもとづいた「想像力」(おそらくフィクション作品を創作する上での発想のパターンを指す)を発揮して作られた作品がある。
その作品は、その年代のメンタリティを「代表」「体現」している。
そのことは、作品のあり方(基本的に物語内容)から見てとれる。
たとえば主人公はこれこれで~(作品の具体的な記述・解釈)。
「批評」における社会反映論
明晰でわかりやすいので宇野常寛の論述を事例にしたが、ポピュラーカルチャー(とりわけオタク文化)についての批評的な語りが社会反映論のかたちをとることはかなり多い。たとえば、東浩紀の一連の著作には、社会反映論の面が少なからずある。
そうした「批評」の文脈では、社会反映論と作品論が対比されることがよくあるものの※、実際にはそこまで明確に線引きできるようなものでもない。
たとえば、第8回の授業で紹介した岡田斗司夫の批評は、おそらくは作品論に分類されるものだが、社会反映論的な側面がまったくないとも言えない。
※最近目にしたツイートでは、「画面の分析」から出発するアニメ批評と社会反映論的なアニメ批評が対比されていたが、それに対する批判的な反応もいくつかあった。
社会反映論と同じようなタイプの議論の例
ビデオゲーム関連で2つほど例を挙げておく。
【田中圭一連載:ゼビウス編】ゲーム界に多大な影響をもたらした作品の創造者・遠藤雅伸は、友の死を契機に研究者となった。すべては、日本のゲームのために──【若ゲのいたり】
後半の「ゲームをやめる理由」あたりのところ。
ゲームデザイナーの遠藤雅伸への取材記事。日本人のゲームプレイのあり方の背後に「日本」の伝統的なメンタリティ(「残心」など)があるという主張。
[CEDEC 2011]日本人は,遠近法で風景を見ていなかった。9月8日の基調講演「情報化社会,インターネット,デジタルアート,日本文化」をレポート
「日本の文化を再分析する」以下の全体。
チームラボの猪子寿之による講演。日本の絵画と西洋の絵画の比較、果ては日本の(レトロな)ビデオゲームにおける空間の描き方から、「日本人」と「西洋人」とで空間認識のあり方が異なることがわかるという主張。
遠藤・猪子の議論の構造
遠藤の議論の構造
日本人のプレイヤーがビデオゲームをクリアする手前でやめてしまう理由として、これこれのものが多い(調査結果からそのように言える)。
日本の伝統的な武道や芸道では、余韻を残すことをよしとする「残心」という発想がある。
日本人のゲームプレイヤーのプレイのあり方は、この日本の伝統的なメンタリティのあらわれである。
猪子の議論の構造
西洋の昔の絵画は線遠近法で描かれているが、日本の昔の絵画(『洛中洛外図』など)は線遠近法とは別の「論理構造」で描かれている。
つまり、西洋人は空間を三次元的に把握しているが、日本人は別の仕方で空間を把握している。庭園のデザインにも各々の空間認識の差が反映されている。
『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』の空間描写を見ても、やはりそうした日本人の空間把握のあり方が反映されているのがわかる。
社会反映論の特徴づけ
社会反映論は、大まかには次のように特徴づけられると思われる。
作品それ自体のあり方や作品に対する受容者の接し方(いずれも観測できる事実)をもとにして、そこから集団心理的な事柄(時代のメンタリティ、民族のメンタリティ、コミュニティのメンタリティ、etc.)を推測するタイプの議論
推測のもとになる作品(群)や受容者(群)は、推測される事柄の種類に応じて、「これこれの年代の作品/受容者」という場合もあれば、「これこれの地域の作品/受容者」という場合もある。
場合によっては、ジャンル単位でピックアップされることもある。たとえば、〈魔法少女もの〉というジャンルのあり方から何かを推測するなど。
様式論的観相学との類似性
美術史学において「様式論的観相学」と呼ばれる古めかしいタイプの議論も、この社会反映論の特徴づけにかなりぴったり当てはまる。
※「様式論的観相学(stylistic physiognomy)」という言い方はゴンブリッチから借りた。この言い回し自体はあまり広まっているものではないが、適切なネーミングが他に見当たらない。
様式論的観相学
様式のあり方をもとにして、そこから集団心理的な事柄を推測するタイプの議論。
最近の美術史ではそういうタイプの「研究」はほとんどないと思うが、かつての美術史にはたくさんあった。
第8回の授業スライドの「どんな事実を推測するか」の箇所も参考。ここで挙げている事柄のうち、「制作者や受容者集団の心理的な傾向」を推測するのが様式論的観相学である。
社会反映論はどこにでもある
このように社会反映論は、(一部の)ポピュラーカルチャー批評、(古い)美術史学、著名人による適当な放言など、さまざまな文脈で広く見られる。
SNSやブログでの「考察」や日常的な思いつきなども含めれば、無数にあるだろう。卒論でも初手でそういうタイプの議論をしたがる人はけっこう多い。
※ ちなみに社会学の太郎丸先生がその件でブログで文句を書いている。
とにかく、社会反映論はいつもどこにでもある。そしておそらくは、少なくとも素朴なレベルでは、誰もがひとまず初手で思いついてしまう発想でもある。
社会反映論の問題
ここまでの事例からすでに明らかなように、社会反映論にはかなりうさんくさい面がある(少なくとも明らかにうさんくさい話でも一見それっぽい議論が成り立ってしまう)。
実際、様式論的観相学は美術史学の中で痛烈に批判されてきたし、前掲した太郎丸先生のブログ記事のように、学生が卒論でそういうことをやることに対してかなりネガティブな態度をとる人も多い(研究者なら普通の態度だが)。
一方で、それなりに説得力のある社会反映論とまるで説得力のない社会反映論の違いもありそうである。実際、東浩紀や宇野常寛の議論には、それなりに人を納得させるところがあるように思える。
以下では、いったん社会反映論から離れて、科学哲学の初歩的な知見を確認する。そのうえで、社会反映論が一般にどういう論証の構造を持つか(ようするにどんな理屈になっているか)をはっきりさせたうえで、社会反映論が抱える難しさを考える。
帰納のいろいろ
アブダクション
演繹と帰納
推論、つまり前提をもとにして合理的に結論を引き出すことには、大きく分けて演繹(deduction)と帰納(induction)があるとされる。
演繹
結論よりも前提のほうが一般性が高い(それゆえ情報量が増えない)。
前提が真なら必ず結論も真になる(真理保存性)。
典型例:三段論法(すべての猫は動物だ。マイケルは猫だ。したがってマイケルは動物だ。)
帰納
個別の事実を前提として一般的な結論を引き出す(それゆえ情報量が増える)。
前提が真であっても必ずしも結論は真ではない。つまり、確実に真であるという結論は出せず、確からしいかどうかしか言えない。
典型例:枚挙的帰納法(猫Aには尻尾がある。猫Bにも尻尾がある。マイケルにも尻尾がある。……したがってすべての猫に尻尾があるだろう。)
余談
演繹と帰納の正確な特徴づけは、実際にはけっこう難しい。
伊勢田先生のブログで両概念についてその歴史的変化も込みでまとめられているので、興味がある人は読んでみてください。
「実証的」な研究と帰納
「実証的」あるいは俗に「科学的」と呼ばれるタイプの研究の多くは、全体的なプロセスとして見れば、主に帰納をやっている。つまり、何らかのデータ(観測可能な事柄)を集めて、それを前提として何か一般的な事柄を結論として引き出すということを主にやっている。
純粋に演繹だけで済ませている分野は、論理学と数学くらいしかないかもしれない。
「帰納」と言ってもいろいろなタイプと手続きがあるが、典型的な実証的研究は、おおむね以下のいずれかをやっている。
枚挙的帰納法
仮説演繹法(ネーミングがまぎらわしいが部分的に演繹を使っているだけで全体としては帰納)
仮説検定
枚挙的帰納法
論証の構造
ある種類Pに属する事柄aは、Qである(という観測結果が得られている)。
同じく種類Pに属する事柄bも、Qである。
同じく種類Pに属する事柄cも、Qである。
……
これまで一定だった事柄はこれからも一定である(斉一性原理)。
====================================
したがって、Pに属するすべての事柄はQであろう(と考える十分な理由がある)。
仮説演繹法
与えられたデータから何か検証(科学哲学の専門用語としては「確証」と言ったほうがよい)したい仮説を立て、その仮説を前提として演繹的に予測を導き、その予測通りの観測結果が実際に得られるどうかで仮説の確からしさをテストする方法。
論証の構造
仮説:種類Pに属するすべての事柄はQである。
予測:仮説が真なら、Pに属する未観測の事柄dはQである(仮説からの演繹)。
観測(実験、調査、発掘、etc.)
結果①:dはQである。
結果②:dはQでない。
========================================
結果①からの結論:仮説が検証された(仮説の確からしさが上がった)。
結果②からの結論:仮説が反証された(少なくとも仮説に修正の必要があることがわかった)。
仮説検定(統計的検定)(※ベイズ主義はややこしいので省略)
仮説演繹法の予測が当たったかどうかの部分を、イチゼロではなく確率の問題(程度問題)として処理する方法。統計的に有意かどうかを言うタイプ(p値を出すタイプ)の研究はこれをやっている。
論証の構造
検証したい仮説:sである。
帰無仮説(検証したい仮説の否定):sではない。
観測結果(サンプル集め):tだった。
場合①:sでない場合にt(以上に珍しいこと)が起きる確率は5%以上である。
場合②:sでない場合にt(以上に珍しいこと)が起きる確率は5%未満である。
======================================
場合①の結論:帰無仮説が誤りであるとは言えない(=「sである」とは言えない)。
場合②の結論:帰無仮説は誤りである可能性が大きい(=「sである」が正しい可能性が大きい)。
ちょっと休み
多数のデータ、新たなデータがない場合は?
ここまでで挙げたタイプの帰納では、すでに多数の同種のデータがあるか、あるいは新たなデータが得られることがその方法の前提になっている。
枚挙的帰納法の場合、同じ種類の事柄についてのデータがすでに一定数以上得られており、それにもとづいて、ある程度確からしい一般的な主張が言えるという前提がある。
仮説演繹法や統計的検定の場合、仮説の確からしさを試すのに使えるデータが何かしらの工夫(実験など)で新たに得られるという前提がある。
しかし、同種のデータが多数なかったり、新たなデータをとる見込みがないケースの場合、どうすればいいか。たとえば、ただの一例や一回きりの出来事から何かを推測しなければならないようなケースの場合、どうすればいいのか。
犯人の推測
たとえば、殺人事件の犯人を刑事が推測するケースを考えよう。
刑事は、得られている手がかり(観測事実)をもとに推理を進める。ここで刑事がやることは、基本的には犯人が誰であるかについてのできるだけもっともらしい仮説を立てることであり(そしてそれによって裁判所から逮捕状を出してもらうことであり)、それ以上でも以下でもない。
その仮説が正しそうだという結論を出すための手がかりが足りないと感じれば、新たな観測事実を探し、うまくいけばその仮説の確からしさを上げることができる(仮説の確からしさを上げる最たるデータは容疑者の自供かもしれない)。
その点は仮説演繹法に近い考え方だが、手がかりになるようなデータが得られる保証は何もない。そして、枚挙的帰納法や仮説検定の考え方はまるで通用しない。
歴史的事実の推測
犯人の推測の場合は、まだしも自供などの新しい観測事実が生成される可能性があるが、古い時代の歴史的事実の推測(歴史研究においてかなりの比重を占める作業)の場合、推測するための手がかり(=史料)は、原理的に言って、それ以上生まれようがない。
※余談:いわゆるオーラルヒストリーは、一種の証言(testimony)であるという意味で、認識論的には自供に近い位置づけになると思われる。
もちろん未発見の史料を探すべく考古学的な努力をしたり、未解読の史料を読めるようになるべく各種の解釈の努力をすることはできるものの、原理的な限界がある。
結果として、歴史研究では、どの仮説がもっとも確からしいかが定まらないというケースがたびたび生じることになるが、それでも歴史学者は諸説を検討し、自説の優越を示すべく戦っている。そこで歴史学者がやっているのは、どの仮説が、得られている手持ちのデータをもっともよく説明するか、というバトルである。
邪馬台国論争などを想像してみればわかりやすい。
最良の説明への推論(アブダクション)
刑事や歴史学者がやっているのは、「最良の説明への推論(inference to the best explanation、略してIBE)」と呼ばれるタイプの推論である。これは「アブダクション(abduction)」と呼ばれることも多い。
※実はIBEと(本来の意味での)アブダクションは似て非なるものであると主張する論者も多いのだが、専門的な話なのでとりあえず気にしなくてよい。
アブダクションは帰納の一種とされることもあるが、先に挙げた枚挙的帰納法その他のタイプの帰納とは別物として理解したほうがよい。
すでに得られているデータから仮説を立てるというプロセスそのもの、そして考えられる仮説の中から(新しいデータを得ることなしに)どれをチョイスすべきかを検討するプロセスが、IBE=アブダクションである。
アブダクションの論証の構造
アブダクションは一般に次のような構造を持つ。
何か説明を要するような(驚くべき)事実Fが観測される。
仮説Hが真だと仮定すれば、Fであることを無理なく説明できる。
======================================
したがって、Hが真だと考えるべき理由がある。
※余談:アブダクションの構造を単純な論理式で書くと以下のようになる。
F
H⇒F
∴H
これは演繹として見れば明らかに誤謬なのだが(後件肯定の誤謬)、仮説を作るとき、またその仮説を比較検討するときには、この形式をとらざるを得ない。仮説演繹法も全体としてこの構造になっている点ではアブダクションと同じである。
具体的なケースに当てはめる
邪馬台国論争の例で考えてみる。
説明を要するような事実:
魏志倭人伝(およびその他の歴史書)にこれこれの記述がある(文書資料)。
これこれの場所でこれこれの出土品が出ている(考古資料)。
etc.
邪馬台国がこれこれの場所にあると仮定すれば、上記の事実を無理なく説明できる。
======================================
したがって、邪馬台国がこれこれの場所にあると考えるべき理由がある。
※ 実際には、邪馬台国論争は、場所についての仮説だけでなく、魏志倭人伝の記述をどう読むか(たとえば、どこをどのような書き間違いとして解釈するか)や上代日本語についての言語学上の仮説といった別の仮説もセットになっているため、ここで示した構造よりもはるかに複雑である。
アブダクションはどこにでもある
犯人の推測や歴史的事実の推測などを例にしてきたが、実際には、アブダクションは、日常生活も含めたあらゆる文脈で、きわめて頻繁に使われているタイプの推論である。
たとえば、医者が診察において患者の身体的な状態や言動から病状を推測するのも、典型的なアブダクションである。
演繹や帰納よりもはるかに当たり前のように使われている推論だと言ってもいいかもしれない。
日常的なアブダクションの例は無数に挙げられるが、たとえば:
説明を要するような事実:地面が濡れている。
仮説:さっき雨が降ったと仮定すれば、この事実は無理なく説明できる。
=====================================
したがって、さっき雨が降ったと考えるべき理由がある。
諸仮説の比較検討:ひとまずの最良の仮説へ
もちろん、ぱっと思いつく仮説が間違っていることもある。地面は濡れているが、外に出していた洗濯物が濡れている形跡がないとか、まわりに水道につながったホースがあったりすれば、「さっき雨が降った」ではなく別の仮説のほうがもっともらしい(言い換えれば、得られている観測事実をよりよく説明する)ということになるかもしれない。
アブダクション=最良の説明への推論は、このようにして、ひとまず考えられる仮説のうちのどれが、ひとまず得られている観測事実を最もよく説明する仮説かという観点で、諸々の仮説を比較検討する。
これは日常生活でも(おそらくほとんど無意識のうちに)頻繁に使われている思考プロセスだが、研究の中でも当然のように使われている。
帰納的な手続きがメインの実証的研究でも、「考察」の部分は、通常はアブダクションの構造になっているはずである。
社会反映論の論証構造
社会反映論の落とし穴
社会反映論は何をやっているのか
社会反映論は枚挙的帰納法はやっていない。
仮説演繹法もやっていない。
仮説検定ももちろんやっていない。
社会反映論がやっているのは、おそらくアブダクションである。
つまり、〈得られている観測事実から何か仮説を立てる〉ということ、〈その観測事実に合うような説明を作る〉ということをやっている。
遠藤・猪子の議論の構造(再掲)
遠藤の議論の構造
日本人のプレイヤーがビデオゲームをクリアする手前でやめてしまう理由として、これこれのものが多い(調査結果からそのように言える)。
日本の伝統的な武道や芸道では、余韻を残すことをよしとする「残心」という発想がある。
日本人のゲームプレイヤーのプレイのあり方は、この日本の伝統的なメンタリティのあらわれである。
猪子の議論の構造
西洋の昔の絵画は線遠近法で描かれているが、日本の昔の絵画(『洛中洛外図』など)は線遠近法とは別の「論理構造」で描かれている。
つまり、西洋人は空間を三次元的に把握しているが、日本人は別の仕方で空間を把握している。庭園のデザインにも各々の空間認識の差が反映されている。
『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』の空間描写を見ても、やはりそうした日本人の空間把握のあり方が反映されているのがわかる。
アブダクションの形式に書き換える(猪子の議論の場合)
観測事実:
西洋の昔の絵画は、線遠近法で描かれている。
日本の昔の絵画やビデオゲームのグラフィックは、線遠近法とは別の描き方で描かれている。
仮説:
日本の人と西洋の人とで空間認識のあり方が異なると考えれば、上記の観測事実が無理なく説明できる。
=======================================
したがって、日本の人と西洋の人とで空間認識のあり方が異なると考えるべき理由がある。
アブダクションの形式に書き換える(遠藤の議論の場合)
観測事実:
日本人のプレイヤーがビデオゲームをクリアする手前でやめてしまう理由として、これこれのものが多い。
日本の伝統的な武道や芸道では、余韻を残すことをよしとする「残心」という発想がある。
仮説:
「残心」という日本的メンタリティが日本人のゲームプレイのあり方に影響を与えているという仮定を立てれば、日本人プレイヤーがこれこれの理由でゲームをやめてしまうという事実を説明できる。
===================================
したがって(以下略)。
『ゼロ年代の想像力』の引用した箇所の議論の構造(再掲)
議論の構造を大まかにまとめると:
~年代は、これこれのことが起きた時代である。
その年代を支配していたメンタリティはこれこれである。
その年代のメンタリティにもとづいた「想像力」(おそらくフィクション作品を創作する上での発想のパターンを指す)を発揮して作られた作品がある。
その作品は、その年代のメンタリティを「代表」「体現」している。
そのことは、作品のあり方(基本的に物語内容)から見てとれる。
たとえば主人公はこれこれで~(作品の具体的な記述・解釈)。
アブダクションの形式に書き換える(宇野の議論の場合)
観測事実:
~年代は、これこれのことが起きた時代である。
同年代のフィクション作品『~~~』は、これこれの内容である。
仮説:
これこれのメンタリティがその年代を支配していたと仮定すると、その年代の作品『~~~』がこれこれの内容であるという事実を無理なく説明できる。
======================================
したがって、これこれのメンタリティがその年代を支配していたと考えるべき理由がある。
社会反映論のうさんくさい部分
社会反映論のどのへんがうさんくさくなりがちかを考える。
以下は、必ずしもすべての社会反映論に当てはまるわけではないだろうが、社会反映論(とくにクオリティの低いもの)にしばしば見られる欠陥である。
(a) 反証可能性がろくにない。
(b) 端的な事実誤認がある。
(c) 事実の部分が作品の解釈次第で変わる(そしてその解釈は恣意的である)。
(d) 都合の悪い事実を無視する。
(e) 主張される仮説とは別に暗黙の仮説がくっついている(そしてそれがあやしい)。
(f) 他の考えられる仮説との比較がない。
(a) 反証可能性がろくにない
反証可能性(falsifiability):
これこれの観測事実が出れば当の仮説が否定されるという条件(仮説の棄却条件)がどれだけはっきりしているかの度合い。
反証可能性は、科学的仮説が満たしたほうがよい特徴として広く認められている。科学と疑似科学(陰謀論、占い、代替医療、創造科学、etc.)を区別する目安として持ち出されることもよくある(反証可能性の有無や高低だけで両者を線引きできるわけではないが)。
社会反映論は、特定のメンタリティ(集団の心理的傾向)があることを仮説として主張するわけだが、どのような観測事実が得られれば、その仮説を否定できるのかの条件がまるではっきりしないことが大半だと思われる。
そもそも集団のメンタリティという観測不可能できわめて不確かなものを持ち出すところに、社会反映論に共通するひとつの大きな問題がある。
(b) 端的な事実誤認がある
社会反映論が、前提となる事実を誤認していることがまあまあある。誤った事実認識をもとにして立てられた仮説は、確からしさや説明力を測る以前のものである。
たとえば、先に挙げた遠藤の議論では、「残心」という伝統的な概念あるいは実践をおそらく誤解している。
少なくとも武道における残心は、余韻をよしとするといったことではなく、試合後も気合い(緊張感)を維持するということである。
そうした心持ちが、ビデオゲームのプレイにおいてクリアの手前でやめることに結びつくとはとても思えない。
(c) 事実の部分が作品の解釈次第で変わる(そしてその解釈は恣意的である)
ポピュラーカルチャー批評の文脈での社会反映論では、アブダクションにおける前提(観測事実)の部分がフィクション作品のあり方であることがよくあるが、とりわけその作品の物語内容が前提になることが多い。
物語内容という概念については、去年の授業の第6回の授業スライドを参照。
物語内容は、当然ながら解釈によって引き出されるものである。
ある程度常識的な(あるいは何らかの理屈で正当化可能な)作品解釈にもとづいた物語内容を観測事実として前提にする場合はそれほど問題ないだろうが、社会反映論ではしばしば、よく言えば独自の、悪く言えば恣意的な作品解釈が行われる。
独自の面白い解釈をすること自体が目的ならともかく(それだけならある種の作品論としてはアリかもしれない)、その恣意的な解釈によって引き出された物語内容を前提としたうえで集団のメンタリティについての何らかの仮説をアブダクションとして提示しようとするのは、研究の手続きとしてはかなり問題がある。
(d) 都合の悪い事実を無視する
ある仮説を自分が立てたときに、その仮説にとって有利なデータだけを見て不利なデータを見ないようにすれば、その仮説は(少なくとも自分の中では)いくらでも維持できる。
これは陰謀論に典型的に見られる思考パターンである。
この無視は意図的にされている場合もあるし、意図せずなされることもよくある(確証バイアスという認知バイアスの一種)。
都合の悪いことを無視することは、個人の心理的安定にとっては大いに役立つバイアスだろうが(そしておそらくは人間にごく自然に備わっている心理的傾向だろうが)、少なくとも何か事実を明らかにするタイプの研究においては、できるだけ避けるべきことである。
続き
クオリティの低い社会反映論は、(意図的か否かはともかく)自説に都合の悪い事実を無視していることが少なくない。
たとえば、猪子の議論では、次のような、美術史やビデオゲーム史の知識が多少なりともあればすぐに気づくであろう諸事実が無視されている。
西洋の絵画には線遠近法でないものが大量にあるという事実(線遠近法のほうが絵画史的に見て特殊である)
日本の絵画には絵巻物でないものが大量にあるという事実(ひとつの特殊なジャンルでしかない)
ビデオゲームのグラフィックのあり方は、地域ではなくたんに時期に依存するという事実(ファミコン時代の『マリオ』や『ドラクエ』と似たような空間描写の作品は同時期やそれ以前の西洋のビデオゲームにも大量にある)
etc.
(e) 主張される仮説とは別に暗黙の仮説がくっついている(そしてそれがあやしい)
社会反映論では、主張される本体の仮説とは別に、それを観測事実の説明として成り立たせるための別の仮説が暗黙のうちに組み込まれていることが非常に多い。
宇野のケース
本体の仮説:これこれの年代にはこれこれのメンタリティが支配的であった。
暗黙の仮説:ある年代を支配するメンタリティは、その年代の作品のあり方に反映される。
遠藤のケース
本体の仮説:日本のプレイヤーがこれこれの理由でやめるのは、「残心」という伝統的な日本のメンタリティの影響があるからである。
暗黙の仮説:ある地域で伝統的に重視されるメンタリティは、当の地域の人間の行動に反映される。
猪子のケース
本体の仮説:西洋人の空間認識と日本人の空間認識は異なる。
暗黙の仮説:空間認識のあり方は、絵の描き方に直接的に反映される。
続き
この暗黙の仮説は、明らかに「社会反映論」の「反映」の部分を担当しているものなのだが、それ自体が社会反映論の中で十分に検討されたり正当化されたりすることはまずない。
もちろん、作品のある部分に「世相」なりなんなりがある意味で「反映」されることはなくはないだろうが、それはあらゆる作品のあらゆる側面に自動的に成り立つ話ではない。
それゆえ、そこで言う「反映」とはどういうことなのか(概念の明確化)、個別ケースにおいてどんなメカニズムで「反映」が成り立っているのか(因果関係の特定)といったことを十分に論じないかぎり、社会反映論が一定以上の説得力を持つことはないと思われる。
また、「反映」の内実も実際にはさまざまである。たとえば、たんに当時の流行や常識がモチーフとして組み込まれているとか、当時の人々に共有されていた問題関心がテーマとして取り上げられているといったことから、何か無意識のメンタリティがあらわれている、といったことまで幅広く考えられる。
(f) 他の考えられる仮説との比較がない
ある観測事実をそれっぽく説明する仮説は、ほとんど無数に作り出すことができる。
最良の仮説への推論=アブダクションをする際の基本的な態度は、そうした考えられるさまざまな仮説を比較検討し、その中でひとまず最もよい説明になっている仮説を選び出すことにある。
「よい説明」の基準が何であるかは厳密には難しいが、少なくとも、得られている観測事実をより多く説明できる、都合のいい存在者をむやみに導入しない(オッカムの剃刀)、既存のいろいろな知識体系と整合的である、といった目安は言える。
これはアブダクション一般に言えることであり、歴史研究でも刑事の仕事医者の診察でも、さらには日常的な場面でも、当たり前のように使われている態度である。
続き
社会反映論に関して決定的に問題なのは、考えられる他の仮説との比較がほとんどないという点にある。
ある作品がこれこれのあり方をしているという事実は、何らかの集団的メンタリティを持ち出さなくても、十分に説明がつくことがおそらく大半である。
作品が特定のあり方をしていることの原因は、直接には作者の意図と行為であり、次に作者の意図と行為を構成する作者の認識や知覚や価値観や技術であり、その先には作者を取り巻く制作上の慣習(たとえばそのジャンルのお約束)や注文主・受け手の個別のニーズがあると考えてもいいだろう。
社会反映論は、そうした作品制作上の個別的な文脈から離れて、当の社会に広く通底する何らかのものが作品のあり方に因果的な効力を及ぼしているという発想をするわけだが、そのような仮説の手前に、はるかに「地に足の着いた」仮説の候補がいくらでもありえる。それらのごく常識的な仮説との比較をしないかぎり、社会反映論が一定以上の説得力を持つことはないだろう。
社会反映論の落とし穴まとめ
(a) 反証可能性がろくにない。
(b) 端的な事実誤認がある。
(c) 事実の部分が作品の解釈次第で変わる(そしてその解釈は恣意的である)。
(d) 都合の悪い事実を無視する。
(e) 主張される仮説とは別に暗黙の仮説がくっついている(そしてそれがあやしい)。
(f) 他の考えられる仮説との比較がない。
説教くさいコメント
全員向け(とくに2回生くらい向け)
手持ちの素朴なイメージ(民間理論)にもとづいてなんか言うまえにとりあえず勉強することをおすすめする。とくに、これまでに抱いてきた「研究」「学問」「科学」についてのイメージから早めに抜け出したほうがよい。
「主観的/客観的」とかいう語を安易に使えなくなるまで、科学哲学の教科書その他を読むことをおすすめする。
現代文化の研究(メディア文化学)やりたいな~(楽そうだな~)の人向け
何が研究としてアリなのかナシなのかということが定まっていないぶん、自分で最低限の方法論的な反省(どんな問いと方法なら研究になるか、その研究にはどんな意義があるか、etc.)をしないといけない。その過程では、このコースの後半で取り上げたようないろいろな抽象度の高い原理的な問題に必ずぶつかることになる。
自分でそういう方法論的な反省をするのがしんどいのであれば、定まった「お作法」がしっかりあるような分野の枠内でやったほうがよい。
社会反映論の文献
社会反映論にダメ出しする授業をしておいてなんだが、東や宇野の議論からは得られるものも多いので話半分で読んでおいて損はない。実際面白く読めるところが少なくない。
東『動物化するポストモダン』講談社、2001年
東『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社、2007年
宇野『ゼロ年代の想像力』早川書房、2011年
様式論的観相学への批判
マイヤー・シャピロとエルンスト・ゴンブリッチの文章が掲載されている本だが、両者とも様式論的観相学をかなり手厳しく批判している。美学美術史学の人は一読しておくことをおすすめする。
シャピロ/ゴンブリッチ『様式』細井・板倉訳、中央公論美術出版、1997年
科学哲学関係
教科書・入門書はかなりたくさん出ているが、一番最初に読むものとしてはひとまず以下をすすめる。とくに前者のほうは軽い読み物で、科学哲学のよくある論点がさくっとおさえられる。後者はしっかりした内容の教科書だが、文章は平易で、初学者にとっても十分読みやすいと思われる。
戸田山『科学哲学の冒険』NHK出版、2005年
伊勢田『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会、2003年
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