#3

美と近代美学

メディア文化学/美学美術史学 特殊講義

月曜4限/第3回

松永伸司

2023.10.30

  • このコースで扱いたいダサ判断の範囲をもう少しはっきりさせる(前回のリアぺのQ&A)

  • ダサ判断から一旦離れて、美的判断一般の特徴を理解するために、美学史の教科書的な内容を確認する。とくに「美」がどのようなものとして考えられてきたか、美学という分野の成立期(18世紀)に美や美的判断がどのように特徴づけられたかについて、ごく簡単に確認する。

今日の授業のポイント

今日のメニュー

1. 前回のリアクションペーパーのQ&A

2. 古典的な美の客観主義

3. 近代的な美の主観主義

1. Q&A

  • 前回のリアクションペーパー

Comment

Formsの設定で「記述式>右下のオプション>回答の検証>数値>整数」にすると半角数字のみ受け付けることができます

とてもありがたいです。🙇

A.

Comment

お願いなのですが、授業中に前のスクリーンに映したスライドをあまり拡大縮小したり動かしたりすると目が回るので、できるだけ静止状態で映してくださると嬉しいです。もちろん縮小拡大、移動の必要がある場合もあると思いますが、検討をお願いします。

すみません。意識して気をつけたいと思います。🙇

A.

Comment

ダサさのジャッジに関しては自信があるが、この授業に参加すること自体がダサいのでは無いかという葛藤がある。

授業に参加することは総じてダサい傾向にあると思いますが、この授業に参加することはとくにダサいかもしれませんね。がんばってください。

A.

Comment

「ダサい」の例で挙げられていた筑波大の先生?のツイートの意味がよく分からなかったです。

個人的な解釈としては、90年代当時には色物として皮肉を交えて見ることができた文化やイメージが、現代に「リバイバル」したことで、そうした文脈を離れてかっこよさのみで展開されているような状況になっていると解釈しました。筆者は「色物」が「かっこいいもの」になっていることを苦手に感じているのでは?と思ったのですが、授業内での解釈は少し異なっていたようだったので気になりました。

その解釈でよいと思います。

A.

Comment

普通の人がもし何かしらのかっこいいものを作ろうとした場合、よくある無難なものになりがちだと思うんですが、そういう創作は癖がないお陰で(せいで)目立った良い点もないのがほとんどだと感じます(良い例がなくてすみません)。そういうのが上手い人は、いい意味での癖になるポイントを作るのが上手いのかな、と思います。やりすぎたらダサいけど、ちょうど良い塩梅、みたいな...分からないですけど。ダサいとかっこいいって紙一重の部分があるのではないかとと思います。

表現の「攻め/守り」の評価の話でしょうね。「守りに入っている(安牌を選ぶ)」という態度自体がダサいと判断されることは比較的よくあると思います。もちろん、「攻め」た結果ダサくなることもよくあります。

A.

Comment

今回の授業を聞いて、そして整理されたスプレッドシートを見て私が考えたことは、人がある物や行為などを「ダサい」と判断するにあたって、その物や行為が持つ美的性質ではなく個人的な感情(しばしば妬みや恨みなどのネガティブな感情)が起因することがあるのではないかということである〔…〕。

このように何かを「ダサい」と思う理由には、対象に対する個人のネガティブな感情が関係していて、それが美的判断として認識されているケースもあるのではないかと考えた。美的判断に感情が絡むのは普通のことなのでしょうか? また個人の主観的な感情が理由に大きく関わると、その美的判断の伝達可能性が下がると思うのですが、そのあたりについて考えをお聞きしたいです。

快・不快の感情ベースでなされる判断だという話は昔からあります(正しいかどうかはともかく)。その意味で、美的判断に感情が大きく関わると考えること自体はオーソドックスな美学ですが、「妬み」や「恨み」といったタイプの感情にもとづくという話ではないので、その点は混同しないほうがよいでしょう。

A.

Comment

倫理的・認識的にダメな行為や態度が美的判断に関わるという観点について、割と曖昧な部分が多いだろうとは感じました。例えば、歩きタバコや対戦ゲームで暴言を吐くなどは、倫理的にダメとも徳が低いからダサいとも言える気がします。ダサ判断を行う人が、行為を行う人自体に主体を見出しているか否かが問題になってくるように感じました。「歩きタバコ」は条例で禁止されているからだめ、あるいは「歩きタバコは他の通行人に迷惑がかかる行為だからダメ」と考えていたら、これは倫理的な判断で行為者の主体に関係なく判断されていますが、「歩きタバコしてルール破ってるのかっこいいと思ってるのはダサい」や「タバコを喫煙所まで我慢できないのダサい」と考えていたらこれは美的判断で行為者に主体を見出していると思います。

その通りかもしれません。的確に整理いただいてありがとうございます。

A.

Comment

倫理的判断であって美的判断ではないとされていたダサ判断の事例が、本当にたんなる倫理的判断なのか疑問に思いました。例えば、「人を殴ること」は倫理的に悪い行為ですが、それを「ダサい」と判断する人はあまりいないと思います。一方で、「集団で1人を攻撃すること」をダサいと感じる人は一定数いる気がします。これは、「集団で1人を攻撃する」という行為にはその人の臆病さや小物感(つまり、徳の低さ)が表れているからなのかなと考えました。倫理的判断だけではなく、美的判断もしているように思えます。もっと言うと、倫理的によくないし「ダサい」行為と、倫理的によくないが「ダサい」とは言わない行為との違いはどういうところにあるかと考えたところ、美的判断が伴っているか否かにあるようにも思えたので、「ダサい」という判断はすべて美的判断を含むのだと考えるのも不自然ではないような気がしてしまいました。ダサ判断の整理の際に倫理的判断を除外したのは適切なのでしょうか?もう少し説明していただけるとありがたいです。

たしかにそうかもしれません。除外の意図は「今回の授業で対象として想定しているダサ判断の典型例ではないケースは、議論をややこしくしないためにひとまず外しておきたい」というくらいのことです。なので、「「ダサい」という判断はすべて美的判断を含むのだと考える」ことを否定しているわけではありません(肯定もとくにしていません)

A.

Comment

ダサさの分類として「能力」がありましたが、講義中に挙げられた例を考えてみると他の分類に言い換えが可能であるように思いました。アラビア語選択に関するものだと、自分の能力を超えたものを意図的に(目新しさや、中国語やドイツ語選択などが多い中でアラビア語を選択することの稀少性から?)選択した結果、単位を取ることができなかった、ということなのでダサさの根本にあるのはその人の能力不足そのものであるというよりは、自身の能力を過信しているという行為・態度にあって(自身の能力の如何を見極める能力が不足していたという見方もできますが)行為あるいは態度に分類が可能なのではないかと思いました。服装とメイク等の話も同様で、服装に対して釣り合いの取れた格好にできないという能力不足というよりは、能力不足の結果生まれたアンバランスさ(既存のカテゴリーに当てはめるなら物になりそうです)というのがダサさの原因だという認識です。

その通りかもしれません。「能力」のカテゴリーを今回持ち出しているのは「…はおしゃれである」という判断との類比からなのですが、別の回にまたその話をすると思います。

A.

Comment

分類語を見ていて、全体的に、「ダサい」ものの根幹をなすものの1つは、すべてがそうであるわけではないが「背伸び感」があるのかなと思った。(意識高めだったり、調子に乗っていたり(イキり)、おしゃれぶっていたり、若い人ぶっていたり、余裕が無かったり)

例えば金ぴかの車は「成金が金持ちぶって買うから」ダサく見え、ツイッターのサバゲーマーのダサい服は「(大してセンスがいいわけではないのに)かっこいいと思って着るから」ダサいと言われるのであって、前者は一般人が単に「金色が好きだから」という理由で買ったのを知っていれば多分ダサく思わないと思うし、後者も「別にかっこいいとは思っていない」なら(センスがあるかは別として)わざわざダサいとは言われないと思う。おじさん構文や苦笑いの絵文字も、おじさんが若者ぶって(?)使うからダサく見えるが、若者がネタで使う分には誰もダサいとは言わないので、やはり問題は「背伸び感」なのかなあと感じる。

多くのダサ事例に共通する特徴でしょうね。問題は、その「背伸び感」なる特徴を正確に記述するにはどう言えばいいかという点にあると思います。

A.

Comment

〔どうせならスタバでMacの事例〕から予想したのは、見た目がよくても内容や機能がダメだと「ダサい」と判断される可能性が、人だけではなくモノにもあるのではないかということです。今自分の机の上にあった自動車教習所のパンフレットを見ましたが、ダサいとは思いませんでした。むしろ、必要な情報が過不足なく載っていて、いいパンフレットです。

yuisalonは、「どうせならスタバでMac」云々の言葉もそうですが、内容のあまりない言葉を羅列して、肝心の機能面(たとえば、yuisalonに入ることで何のメリットがあるのか)を示せていないからこそ、見た側の不満が生まれ、その矛先がビジュアルに向くのかなと今回の講義で思いました。

「外面」ではなく「中身」(プロダクトデザインの場合、その機能・実用性)を追求すべしというのは、デザイン史の文脈で「機能主義」と呼ばれる美意識ですが、それに近い価値観が一部のダサ判断にはあるのかもしれません。

A.

Comment

「言い換え」と「判断理由」は区別できるのか、区別する意味はあるのか、わからなくなった。ロジック上は別なのはわかるが、こと美的判断において両者の境界は曖昧な気がする

考えてみるとロジック上本当に別なのかもわからない、何だかんだ相互に言い換え可能であるようにも思えてくる
「ある感情/判断を言語化する」という過程は、前者なのか、後者なのか

次回かその次あたりにその話を少しすると思います。簡単に言えば、〈価値〉と〈その価値の根拠となる性質〉を区別するということですが、おっしゃるように美的判断ではその区別が曖昧になりがちです。

A.

Comment

集められた事例を見ているときに、「〜はダサい」と指摘したりする側の心理には、「本当はこれはダサくて、あれの方がセンスがあると私はわかっているが、お前はそれをわかっていない」というような、ある種の(どんな種なのかはよくわからないですが)認識論的優位性の自覚みたいなものがあることが多いのかなと感じました。ただ、「〜はダサい」とわかっていることは、普通知識と呼ばれるものとはかなり性格が異なると思うので、これを「認識論的」とまとめちゃうのも微妙だなと思いました。

まさにそういう美的な「わかり」の有無が(少なくとも一部の)ダサ判断に大きく関わっているのだろうと思います。

A.

Comment

ダサいもののストック事例におけるマックの広告で「ガワだけをなぞっていて90年代の精神性までトレースできていないことにダサさを感じる」というような話があったと思うのだがそれが非常に印象的だった。人が何かの人やモノや広告を「ダサい」と感じるコアの理由には、それらが本質を理解できていない、または表象できていないように感じられるから、という理由もあるのだろうか。しかしこの理由は何もないところでこけるといったような能力のダサさにはあまり適用できていない気もする。

あくまで一部の(「多くの」かもしれませんが)ダサ判断に共通する理由だということでしょうね。

A.

Comment

「頑張っている人をあざ笑う冷笑的態度」「誤った理解を絶対的に正しいかのように述べる態度」など、倫理的・認識的瑕疵を持つ態度が時に「ダサい」と呼ばれることあるという事実は、美的瑕疵としての「ダサい」と倫理的・認識的瑕疵との関連性を示しているように思う。マックの「平成」キャンペーンやチェンソーマンのアニメ特典のダサさは、90年代的なメンタリティを誤認して上辺だけの引用をしている点や、チェンソーマンの作中で行われる(主に)映画へのオマージュ・引用の作法やその技巧を誤認して「映画好きが好きそうな映画」を安直に並べている点にダサ判断の理由がある。これらの点は認識的な瑕疵と言えそうだし、こうした瑕疵は、そのような対象の美的な観賞において有効な欠点となり、結果的に、その対象は美的に瑕疵を持つのではないか。あるいは、広告やキャンペーンの企画、デザインといった行為の観点から、それらはよりよい美的行為でないと言えるかもしれない。

たしかに何らかの「わかってなさ」を理由にしているという点では、挙げていただいたダサ判断の例は、単なる認識的瑕疵の判断と共通する面はあるでしょうね。認識的瑕疵かどうかよりも「美的なわかってなさ」かどうかにポイントがあることを強調したほうがよかったかもしれません。

A.

Comment

分析美学では、「対象が~なら美しいと判断される」というような美しさの理由は追求されないと思っていました。だから、分析美学を学ぶことで客観的に美しいものを判別したり作ったりすることができるようになれるわけではないですよね。

はい、その通りです。

A.

しかし、ダサ判断のコアとなる理由のようなものが見つかるのだとしたら、それによって美しいものが判別または創造できるようになるとはいかないまでも、ダサい物事や行為を作ったり行ったりしてしまうことを回避したい人たちの役に立つでしょう。このように、美的なものに携わる実践者に利益をもたらすかもしれないという点は、ダサ判断についての考察の有益さのなかでも大きなものだと思いました。

これはどうでしょう。いまのところ「ダサ回避の戦略はいくつかあるが(実際になされているが)どれも原理的には成功しない。つまりダサは原理的に回避不可能である。それを認めたうえで、ではどう生きるか」みたいな話になりそうな気がしています。

A.

2. 古典的な美の客観主義

  • おすすめの文献

  • 現代の民間美学の2つの見解

  • 比率としての美

おすすめの文献

今回の美学史の説明にあたって主に参考にした文献

  • 井奥陽子『近代美学入門』筑摩書房、2023年(第3章)

    • 非常に読みやすい本なので、美学史あるいは美学の最初の入門書としておすすめ。

    • 現代の美学(分析美学)の勉強にはあまりならないが、最低限の前提をおさえるという意味で、現代の美学を学びたい人も読んでおいて損はない。

    • 松永による感想記事:

現代の民間美学の2つの見解 [1/4]

現代の民間美学を確認する

  • 民間美学(folk aesthetics)とは

    • 専門的な美学者でない人々による、美や美的な事柄がどういうものであるかについての素朴な理論・主張(「美とはこれこれこういうものである!」)のこと。

    • 「民間理論(folk theory)」「民間療法(folk medicine)」「素朴心理学(folk psychology)」などと同じ意味での“folk”。

  • 民間理論全般がそうだが、民間美学は、これまでにさんざん論じられてきた(そして場合によってはすでに却下されている)手垢のついた考え方を、素朴に(とくに洗練させることなしに)述べているものが大半である。

  • ただし、素朴でありきたりな理論だとはいえ、何がしかの重要な真実を部分的に示していることもよくあるので、民間美学をきちんと確認しておくこともそれなりに大事ではある。

現代の民間美学の2つの見解 [2/4]

井奥『近代美学入門』から引用(131–132頁)

  • 「美はもののなかにあるのでしょうか。感じる人の心のなかにあるのでしょうか。〔中略〕私は大学の授業でもよく同じ質問を投げかけてみるのですが、学生の回答では「美は心のなかにある」という意見が圧倒的に多いです。同様の主張がデザイン雑誌やファッション雑誌などで語られているのを目にすることもあります。」

現代の民間美学の2つの見解 [3/4]

引用続き

  • 「他方で、私たちの周りにはもうひとつ根強い思想があります。美とは均整のとれたものであり、数や図形で規則を示すことができるものである、という見解です。〔改行〕たとえば一般的には、人の顔は左右対称であるほど美しく、全身は8頭身が理想的だとされています。いわゆる黄金比は、人が本能的に美しいと感じる比率だと広く信じられています。〔改行〕これはつまりプロポーション(釣り合いのとれた比率にあること)を美の基準にする考え方です。」

現代の民間美学の2つの見解 [4/4]

美学史と現代の民間美学

  • 井奥にならって、「美は心のなかにある」派を「主観主義」、「美はものの側(とくに比率)にある」派を「客観主義」と呼んでおく

  • 教科書的な説明:

    • 美をどのようなものとして考えるかという思想の変遷をごく単純化すると、少なくとも西洋では、古代から近世にいたるまで客観主義が主流だったが、近代以降(おおむね18世紀以降)は主観主義が優勢になる。

    • そして、そうした美についての近代的な考え方は、現代では一般の人の考え方(民間美学)にも広く行き渡っている。

 

 

 

※ 「主観/客観」という対比は(とくに初学者にとっては)思考を無駄に曇らせることが非常に多いので、できるだけ使わないほうが望ましいのだが、わかりやすいネーミングではあるので、ここではひとまず採用しておく。いずれにせよ「主観主義/客観主義」という言い方そのものは、あまり気にしなくてよい。

比率としての美 [1/6]

前提:「美」という語の中身

  • 現代的な意味での「美(beauty)」や「美しい(beautiful)」という括りそのものが、近代になってはじめて明確に確立したものだということは、よく指摘される

  • たとえば、古代ギリシアにおける「美しい」や「美」に相当する語(「カロス」や「ト・カロン」)は、現代語としての「美しい/美」よりももっと広い範囲をカバーしていた。具体的には、現代の言い方であれば「見事」「すばらしい」「立派」などと言われるような意味もそこに含まれていた。

  • また、近代以降になっても、道徳的なよさを示すのに「美」に相当する語が使われることはしばしばある(日本語でも「美徳」という言い方があるように)

 

 

 

※ ここでは「括り」の話、つまり概念やカテゴライゼーションの話をしている。現代において「美」と呼ばれる経験や感情や質を近代以前の人は感じていなかったという話ではない(もちろん感じていたという話でもない)。これは概念史や文化間の概念差を問題にする際に一般に陥りやすい落とし穴なので注意しておくこと。

比率としての美 [2/6]

比率としての美という考え方の起源

  • 美をある種の「客観的な」比率としてとらえる立場の起源として、ピュタゴラスの名前を最初に挙げるのが美学史の通例である。

  • ピュタゴラス:

    • 紀元前6世紀ごろの古代ギリシアの哲学者。

    • 「ピタゴラスの定理」で名前がよく知られている人。

    • 宇宙の根本原理は「数」であると主張したとされる。

    • 宗教指導者でもあり、ピュタゴラス教団という秘密結社を宰領したとされる。教団はピュタゴラス死後も活動を続け、プラトンなどにもかなり影響を与えたらしい。

比率としての美 [3/6]

ピュタゴラスの宇宙観と美学

  • 井奥『近代美学入門』から引用(140頁)

    • 「ピュタゴラスにとって、美とは調和や秩序やプロポーションがあることです。つまり美の原理が宇宙の原理でもあり、教団はそれを解明するために数を研究したのです。〔改行〕その主要な研究が、音程に関するものでした。ピュタゴラスは歴史上初めて、音と数の関係を明らかにしたとされています。」

  • たとえば、音階上の音同士の関係は、弦楽器の弦の長さの上で数の比としてあらわれる(1オクターブ離れた音同士は1:2の関係、5度離れた音同士は2:3の関係など)。そして、音同士が特定の関係(比率)になると「調和(ハーモニー)」が生じる。

  • ピュタゴラスは、そのように音楽の原理が数の構造によって支配されているのと同じように、宇宙全体(たとえば天体の運行など)の原理も数の構造によって支配されていると考えていたらしい。

比率としての美 [4/6]

プラトンの美学

  • ピュタゴラスの美学は、明らかにその宇宙観に直結していたが、プラトンの美についての思想にも同様の面がある

  • プラトンの​​​​​​考え方:

    • 造物主(神、デミウルゴス)は至高の存在である。

    • なので、造物主が作ったこの世界は最高に美しいはず。

    • その美しさは、理性で把握できる秩序(数や幾何学的図形によって表現されうるもの)である。

 

 

 

※ プラトンは複数の著作の中で美について言及しており、必ずしも美についての一貫した思想を展開しているわけではない。ここで取り上げているのは『ティマイオス』での記述だが、井奥によれば、この著作は「彼の著作のなかでも、もっとも広く(中世のあいだも)読み継がれたもの」らしい。

比率としての美 [5/6]

プロポーション理論

  • 井奥『近代美学入門』から引用(144頁、強調は引用者)

    • 「神は宇宙を幾何学に従って創造したのであり、この世界は美しく秩序づけられたものである。こうしたピュタゴラスとプラトンによる思想は、古代から初期近代にかけての美学の土台になりました〔…〕〔改行〕そこから、美とはプロポーション〔=比率〕によって生まれる調和である、という考えが普及しました。この立場では、美の原理は幾何学的に示すことができると考えられます。」

  • プロポーション理論を応用した造形芸術(理論や作品)の代表例:

    • 古代ギリシアの彫刻(とくに古典期のポリュクレイトス)

    • ウィトルウィウスの『建築論』

    • レオナルドの《ウィトルウィウス的人体図》​​​​​​​

比率としての美 [6/6]

まとめ

  • 美を比率としてとらえる立場の主張の整理:

    • ①美は比率であり、その背後にはある種の規則がある。

    • ②その規則は、数や幾何学的図形によって表せるものである。

    • ③比率という抽象的なものである以上、美は「感覚によって」把握されるものではなく、「理性によって」把握されるものである。

    • ④美は、秩序や調和やシンメトリーといった質を持つ。

    • ⑤宇宙全体は秩序立っており、美しい

  • ①が「ものの側に美がある」という客観主義の考えに相当する。また、そうした客観主義の見解は、③の理性重視の考え方と強く結びついている。

 

 

※ ⑤はピュタゴラスやプラトンにとっては重要なモチベーションだっただろうが、後代の比率論者がすべてそういう発想だったとはかぎらない(神と美を結びつける論者の場合は似た発想をすることが多いだろうが)。

ちょっと休み

3. 近代的な美の主観主義

  • 余談:背景としての科学革命と経験論

  • ヒュームと趣味の基準

  • カントによる美的判断の特徴づけ

余談:背景としての科学革命と経験論 [1/3]

思想史的な前提

  • ヨーロッパの歴史の時代区分におけるいわゆる近代(modern period)は、各国の政治体制や国際社会のあり方だけでなく、人々の基本的な思想や世界観も大きく変容した時代だとされる。

  • またそうした西洋近代の考え方は、現代のわれわれ(近代以降の西洋の文物からの影響を少なからず受けている人々)の考え方に少なからず受け継がれている。

  • 現在「美学(aesthetics)」と呼ばれているひとつの哲学的な学問分野は、18世紀の半ばごろに、まさにそうした思想的な動向の中で(おそらくその動向のひとつの現れとして)成立した。その意味では、美学には、多かれ少なかれ近代的なものの見方が最初から組み込まれていると言える。

余談:背景としての科学革命と経験論 [2/3]

17世紀科学革命と美学

  • 17世紀前後から、観測技術などの発展によって、天体観測上の新知見やそれにもとづいた新理論が次々に発表されていった。

  • それに伴い、従来の幾何学的に「秩序立った」ものとしての宇宙観が崩れ始め、宇宙はシンプルな規則で成り立っているような整然としたものではなく、もっと乱雑なあり方をしたものだという考え方が広まっていった。

  • 天文学や物理学(運動論)分野から始まったこの「革命」は、他の分野にも波及していった(錬金術から化学への移行など)

  • 美のとらえ方は近代に大きく変わるわけだが、その要因のひとつとして、こうした宇宙観そのものの変質があるかもしれない。

余談:背景としての科学革命と経験論 [3/3]

経験論と美学

  • そのようにして成立した近代科学の方法上の大原則は、トップダウン式に頭の中で「理性的に」考えるだけでは現実世界の探究はできず、ボトムアップ式に観測結果にもとづいて探究を進めてなければならないというものである(現代人にとっては当たり前の発想だが)

  • イギリス経験論と呼ばれる哲学上の動向は、こうした科学の営みを支える基本的な考え方を基礎づけるものだった。経験論者は、基本的には事実の観察からスタートし、そこから(うまくいけば)帰納によって何らかの一般的な法則や原理を推測するというやり方で考えを進める。

  • 経験論者は、当然ながら、美に関しても、人々が実際にどんなものに美を見て取るのか、それをどのようにして判断しているのか、あるいは美についてどのように語り合っているのか、といった事実(美的判断の実践)の観察からスタートすることになる。

ヒュームと趣味の基準 [1/5]

ヒュームの問題意識

  • デイヴィッド・ヒューム

    • 18世紀のスコットランドの哲学者で、イギリス経験論の代表的な論者のひとり。

    • 美学の分野に関係する業績はわずかしかないものの、エッセイ「趣味の基準について1757年は、美学史上きわめて重要な位置にある。

  • 「趣味の基準について」におけるヒュームの問題意識は、人々の美的な好み(=「趣味」)に何か「基準」と言えるようなものはあるのかどうか、つまり「よい趣味」と「わるい趣味」の区別はつけられるのかどうか、という点にある。

    • ヒュームは、経験論者らしく、人々が実際にどのように事物(芸術作品)の美しさを判断しているのか、その判断は一致しているのかといった事実の観察をベースにして議論を始める。

ヒュームと趣味の基準 [2/5]

ヒュームの議論

  • 事実の確認と問い

    • 何を美しいと思うかは人によって異なるとりわけ、時代や地域が違えば、人々の美的判断がまるで異なるのが普通である。つまり、趣味(=美的な好み)に普遍性はない。

    • 一方で、地域や時代を超えて称賛に値するような素晴らしい作品はたしかにある。つまり、「客観的に美しい」と言いたくなるような事物がある。

    • 優れた「批評家」(=美的判断をする人)であるためには、そうした「客観的に美しい」ものを見分けて、「正しく」判断することができなければならない。つまり、「よい趣味」を持たなければならない。

    • とはいえ、趣味に普遍性がない以上、「よい趣味」などというものはありえるだろうか。そもそも「客観的に美しい」事物や「正しい美的判断」があるという考えが誤りなのだろうか。

ヒュームと趣味の基準 [3/5]

ヒュームの議論続き

  • 問いへの答え

    • ①美しさの判断は、あくまで自分の感情(感じ方)にもとづいた判断であるという意味で、絶対の正しさと言ったものはない。

    • ②ただし、そうした(いわば「主観的」な)判断の中でも、より正当化される判断とそうでない判断の区別は、観測事実としてたしかにある。

    • ③正当化される美的判断とそうでない美的判断の違いは、判断をする人が以下の諸条件を満たしているかどうかで決まる。これらを満たすことが「趣味がよい」ということである。

      • (i) 感覚が繊細であること、(ii) 十分に訓練を重ねていること、(iii) 適切な比較ができること、(iv) 偏見から自由であること、(v) (作品の全体的な意図を把握したりするための)まともな知的能力を備えていること。

    • ④この趣味の基準は、およそ普遍的に受け入れられるであろう。

ヒュームと趣味の基準 [4/5]

ヒュームは「主観主義」なのか?

  • 美がものの側にあるのではなく、あくまで人の感じ方の問題であると考えている点では「主観主義」と言ってよい。

  • また、その感じ方が人によってばらばらであることを事実として認めている点でも「主観主義」と言っていいかもしれない。

  • 一方、留保付きではあるものの、美的判断にある種の「正しさ」が言えるとか、趣味に「良し悪し」が言える(あるいは実際にすでに人々はそのように言っている)と考えている点で、「美的判断には正しいも間違っているもない」と主張するタイプの「主観主義」の立場とは異なっている。

    • この後者のタイプの「主観主義」は、「美的相対主義」と呼んでおいたほうが混乱が少ない。

ヒュームと趣味の基準 [5/5]

まとめ

  • いずれにせよ、以下のような美の捉え方は、その後の美学者たち(とりわけ重要なのはイマヌエル・カント)が美的判断の特徴を論じる際の基本的な前提になっていく。

    • 美は、あくまで主観的に感じられるものでしかない。

    • また、事実として、何を美と見なすかというその感じ方(好み)は、人それぞれで異なる。

    • とはいえ、ある意味で「正しい」判断と「間違っている」判断の区別はある(少なくともわたしたちはその区別を実際に行っている)

  • 現代の美学でも、少なくともこれらの点に関するかぎり、基本的な考え方は大きくは違わない。

長くなってしまったので

カントの話は次回にします

4. リアクションペーパーについて

リアクションペーパーについて(前回と同じ内容)

リアクションペーパーの位置づけ

  • 成績の配点:

    • 平常点 50%

    • 期末レポート 50%

  • 平常点は、毎回の授業後に提出していただくリアクションペーパーの提出実績とその内容の質のみによってカウントします。

  • 提出方法はGoogleフォームを使います。

  • 具体的な提出方法や評価の観点についての詳細は、Scrapbox内の「リアクションペーパーについて」のページを参照してください(URLはこのスライドでは共有しません)

🎃 おわり 🎃

来週は休講です

メディア文化学/美学美術史学特殊講義 #3

By Shinji Matsunaga

メディア文化学/美学美術史学特殊講義 #3

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