#7
贋作の存在論
あるいは見分けがつかない別作品の問題
メディア文化学/美学美術史学(特殊講義)
月曜4限/第7回
松永伸司
2025.12.15
今日の授業のポイント
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「贋作」と一口に言っても、いろいろなケースがあることを理解する。
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「オートグラフィック/アログラフィック」の区別を大まかに理解する。
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互いに見分けがつかないものが別作品と見なされるケースについて考える。
今日のメニュー
1. 質問・疑問コーナー
2. 贋作にまつわる存在論的な問題
3. ピエール・メナールのケース
1. 質問・疑問コーナー
質問・疑問 [1/2]
Highbrow / Lowbrow
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日本語でいうところの「高尚/低俗」ということですが、「そもそも高尚/低俗とは何か」という疑問であれば、答えるのが難しいです。
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ざっくり言えば、諸文化に対して一種の価値的な序列をつける区分でしょうね。通常は、当の社会における社会階層の高低(upper classかlower classか)に密接に結びついている概念だろうと思います。
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以下も一読してみてください。
ハイブロウ/ロウブロウとは何でしょうか。
質問・疑問 [2/2]
録音物のマスターとコピーの関係
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マスターとコピーの関係が例化関係でないのは、個別者間の関係だからですね。
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文書をコピー機で複製するケースを考えるとわかりやすいと思います。
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コピー元の文書(個別者) ➡ コピー(個別者)
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詳しくは授業内およびScrapboxで。
録音物のコピーがタイプの例化関係にならないのはなぜか。コピーがもつ性質自体は録音物と相違ないのではないか。
録音物『The Stooges』のマスター [Rm]
個別者
Rmのコピー [R1]
楽曲「I Wanna Be Your Dog」[S]
トラック「I Wanna Be Your Dog」[T]



普遍者
R1の2曲目の再生 [p1]
再生
複製
例化
[R2]
[p2]
[p3]
[R3]
[R4]
例化
p1, p2, p3...はSのトークンでもあるし、Tのトークンでもある。
鑑賞者は、p1, p2, p3...を通じてSやTを鑑賞する。
色分け
※Rmの2曲目の再生や、R2, R3, R4...の2曲目の再生も、SやTのトークンになる。
※Rm, R1, R2...自体が例化する《録音物のタイプ》も考えられるが、図には含めていない。
※曲単位ではなくアルバム単位での《トラック》もありえる。その場合、そのトークンはアルバム全体の再生である。
例化関係
個別者間の関係
録音再生の鑑賞の構造
2. 贋作にまつわる存在論的な問題
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グッドマンの観察
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贋作の種類
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記譜法か歴史か
グッドマンの観察 [1/6]
真正性をめぐる問題
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ネルソン・グッドマンは、『芸術の言語』第3章で、「芸術作品の真正性」をめぐる問題を2つ取り上げて論じている。
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①本物の作品とそれと見分けのつかない贋作があるとしよう。このとき、本物と贋作とで、美的性質は異なるのか。異なるとすればなぜか。
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②作品の贋作が作れるタイプの芸術形式(たとえば絵画)と、作品の贋作が作れないタイプの芸術形式(たとえば音楽)がある。その違いは何に由来するのか。
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今回は②の問題だけを扱う(①も芸術存在論と無関係ではないが、ちょっと別方向の論点になる)。

装丁が変なことで有名な『芸術の言語』邦訳
(慶應義塾大学出版会、2017年)
グッドマンの観察 [2/6]
贋作がありえるかどうか
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以下グッドマンの引用。
真正性に関する第二の問題は、次のようなかなり興味深い事実から生じるものである。絵画とはちがって、音楽には既知の作品の贋作といったものがない。もちろん、ある絵画がレンブラント作だと詐称されることがあるのと同じように、ある楽曲がハイドン作だと詐称されることはある。しかし、〔レンブラントの絵画作品〕《ルクレティア》の場合とはちがって、〔ハイドン作曲の楽曲〕《ロンドン交響曲》の贋作はありえない。〔…〕正確な演奏はすべて等しく当の作品の本物の事例である。それとは対照的に、レンブラントの絵画のコピーは、どれだけ正確であってもその作品の模造品か贋作でしかなく、その作品の事例にはならない。二つの芸術の間でこのようなちがいがあるのはなぜなのか。
グッドマンの観察 [3/6]
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参考
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レンブラント《ルクレティア》(を撮影したデジタル写真のオンラインアップロード版)
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ハイドン《ロンドン交響曲》(の一演奏の記録動画)
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上記のリンク先の画像と音声付き動画を見ることが「本物の作品の鑑賞」と言えるかどうか、それぞれの場合で考えてみてください。
グッドマンの観察 [4/6]
理論語「オートグラフィック/アログラフィック」の導入
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引用
用語を導入しよう。ある芸術作品について、そのオリジナルとその贋作の区別が重要であるとき、かつそのときにかぎり、その作品をオートグラフィック autographic であると呼ぶ。より適切に言えば、ある芸術作品がオートグラフィックであるのは、その作品のもっとも正確な複製であっても本物だと見なされないとき、またそのときにかぎる。ある芸術作品がオートグラフィックであれば、その〔作品が属す〕芸術もまたオートグラフィックと呼んでよいだろう。そういうわけで、絵画はオートグラフィックであり、音楽は非オートグラフィックつまりアログラフィック allographic である。
グッドマンの観察 [5/6]
オートグラフィックな芸術形式、アログラフィックな芸術形式
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グッドマンは、諸々の芸術形式がオートグラフィックとアログラフィックのどちらであるかをざっくり分類している。
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オートグラフィックな芸術形式
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絵画、版画、彫刻
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アログラフィックな芸術形式
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音楽、文学、演劇、建築(ただし微妙な点あり)、ダンス(ただし微妙な点あり)
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↑厳密な線引きや反例の有無を気にする必要はないです。グッドマンの脳内ではだいたいこういうマップができているくらいの理解をしておいてください(とくにグッドマンによる建築の扱いは端的に変だと思います)。
グッドマンの観察 [6/6]
余談:「オートグラフィック/アログラフィック」のニュアンス
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グッドマンはこの理論語の由来をとくに書いていないが、本来「autography」は「自筆文書」の意味である。たとえば筆跡鑑定は、ある書かれた文字が特定の人のautographyかどうかを鑑定している。
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グッドマンの理論語としての「オートグラフィック」には、そうした文字通りの「自筆」のニュアンスは含まれていないが、偽物がありえる(それゆえ真贋の鑑定が可能である)という自筆文書や自筆サイン一般の特徴に強調を置いた言い回しだと思われる。
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別の本の邦訳だと「自書体のみの」と訳されていたりするが、日本語として意味がわからないので、『芸術の言語』の邦訳ではそのままカタカナで「オートグラフィック」とした。
贋作の種類 [1/5]
グッドマンが想定している贋作とは
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グッドマンが言う「贋作」には、ある程度限定がかかっていると考えたほうがよい(グッドマン自身はそこまではっきり書いていないが)。「贋作」と呼ばれるあらゆる具体例を問題にしているわけではなく、特定の種類の贋作を念頭において、オートグラフィック/アログラフィックの違いを考えようとしている。
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グッドマンの論点をはっきりさせるために、贋作のいろいろな種類を簡単に整理しておく。
贋作の種類 [2/5]
作品の事例の贋作は問題にしない
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グッドマンは、音楽にも「演奏の贋作」があることは認めている。これはようするに、グッドマンが「オートグラフィック/アログラフィック」という言い方で問題にしているのは、(作品の個別的事例の贋作がありえるかどうかではなく)作品それ自体の贋作がありえるかどうかという点だけだということだ。
自筆譜や版の贋作がありうるのと同じように、演奏の贋作はありうる。ある演奏を特定の作品の事例にするものは、ある演奏を初演にするものでもないし、ある演奏を〈特定の演奏家による演奏〉や〈ストラディヴァリウスのヴァイオリンでの演奏〉にするものでもない。〔…〕そして、なんらかのそのような性質を持つと詐称された演奏は贋作である。それは、楽曲の贋作ではなく、特定の演奏または演奏クラスの贋作なのである。
贋作の種類 [3/5]
ただの作者の詐称による贋作は問題にしない
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グッドマンは次のように言っている。
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これは、音楽であっても、「~~作」という具合に作者を詐称することによる贋作は普通に可能だということである。
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有名な事例:佐村河内事件
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それゆえ、作者の詐称による贋作がありえるかどうかは、オートグラフィック/アログラフィックの区別に関わらない。
もちろん、ある絵画がレンブラント作だと詐称されることがあるのと同じように、ある楽曲がハイドン作だと詐称されることはある。
贋作の種類 [4/5]
余談:詐称もいろいろ
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ジェロルド・レヴィンソンは、「指示的贋作/創作的贋作(referential forgery / inventive forgery)」という区別を提案している。これはそれぞれ「あの作品だよ贋作」と「でっちあげ贋作」と呼んだほうがわかりやすいかもしれない。
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あの作品だよ贋作
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実際に存在する「あの作品」の本物であると詐称するもの。
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有名な事例:ぱっと事例が見つからない。すぐばれるから?
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※レヴィンソンはジョルジョーネの《テンペスタ》の贋作を指示的贋作の例として挙げているが、詳細はわからず。
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でっちあげ贋作
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実際には存在しない作品をでっちあげるもの。たいていは有名な実在の作者の作だと詐称するパターンだが、作者の存在まででっちあげられる場合もある。
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有名な事例:ファン・メーヘレン事件、ベルトラッキ事件
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贋作の種類 [5/5]
グッドマンは何と何を区別したいのか
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というわけで、グッドマンが想定している意味での「贋作」は、作品の事例の贋作でもないし、たんに「~~作」だと詐称するような贋作でもない。
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おそらくグッドマンが「贋作が可能かどうか」という言い方で問題にしているのは、見分けがつかない2つの事物(物体であれ出来事であれ)があったときに、片方が本物でもう片方が偽物(贋作)になるということがありえるかどうかということである。
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これは言い換えれば、質的に同一な2つの個別者が、同じ作品の事例と見なされるのではなく、別々の作品(真作と贋作)と見なされうるかどうかという話である。
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それらが別々の作品になるのがオートグラフィックな芸術であり、同じ作品になるのがアログラフィックな芸術である、というのがグッドマンの念頭にある区別だと思われる。
記譜法か歴史か [1/9]
グッドマンの問い
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グッドマンの問題意識は、オートグラフィックな芸術形式とアログラフィックな芸術形式を区別した上で、その違いがどこから来ているのかを考えることにあった。
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再掲(強調は松永による):
〔レンブラントの絵画作品〕《ルクレティア》の場合とはちがって、〔ハイドン作曲の楽曲〕《ロンドン交響曲》の贋作はありえない。〔…〕正確な演奏はすべて等しく当の作品の本物の事例である。それとは対照的に、レンブラントの絵画のコピーは、どれだけ正確であってもその作品の模造品か贋作でしかなく、その作品の事例にはならない。二つの芸術の間でこのようなちがいがあるのはなぜなのか。
記譜法か歴史か [2/9]
グッドマンが否定する答え
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グッドマンによれば、単数芸術か複数芸術かという区別(第2回授業を参照)は、オートグラフィックかアログラフィックかの区別に対応しない。
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版画は複数芸術だがオートグラフィックだから。
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同じく、制作段階が一段階であるか複数段階であるかの区別も、オートグラフィックかアログラフィックかの区別に対応しない。
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文学は一段階だがアログラフィックだし、版画は複数段階だがオートグラフィックだから。
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記譜法か歴史か [3/9]
グッドマンの答え
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グッドマンは最終的に、オートグラフィックとアログラフィックの違いを、記譜法(notation)の有無として説明している。
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ここでの「記譜法」は広義であり、楽譜の記法が典型例だが、アルファベットの表記システムなども含む。
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細かい論証は端折るが、ざっくり言えば、次のような理屈である。
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記譜法の存在によってはじめて「綴りの同一性」が保証され、それによって作品にとって本質的な性質とそうでない性質の線引きが明確にできる。
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逆に、記譜法がないと、作品の本質的な性質が何であるかがはっきりしない。そういう場合、作品の真正性を保証するものは、その個別者としての物理的同一性と制作の歴史しかない。それゆえ、質的に同一な2つのものが別の作品になる。
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記譜法か歴史か [4/9]
グッドマンの答えをより簡単に言うと
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アログラフィックな芸術:音楽、文学、etc.
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「綴りの同一性」を保証する記譜法がちゃんとある。
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それゆえ、ある作品の「本質的な性質」が何であるかがはっきり言える。
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オートグラフィックな芸術:絵画、版画、etc.
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記譜法がないので「綴りの同一性」が言えない。
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それゆえ、ある作品の「本質的な性質」が何であるかがはっきり言えない。
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代わりに、作品の同一性は、個別的な事物の物理的同一性と誰がいつ作ったかという履歴によって決めるしかない。
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それゆえ、仮に見分けがまったくつかない(質的に同一な)2つの事物があっても、別の作品になってしまう。これが贋作ができる理由!
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記譜法か歴史か [5/9]
グッドマンの引用(論証が気になる人用なので飛ばします)
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長くなるが、ポイントとなる主張をいくつか引用しておく(以下強調はすべて松永)。
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文学の場合:
文学作品は、明確な記譜法に則って書かれ、互いに連結可能な一定の記号群または符号群からなるものである。この事実によって、実質的に、当の作品にとって本質的な性質とまったく偶有的な性質を区別する手段——つまり、〔当の作品にとって〕必要な諸特徴と、そのそれぞれの特徴における許容可能な変化の限界を確定する手段——が得られる。目の前にあるコピーが正確に綴られているかどうかを見定めるだけで、そのコピーが当の作品の要件をすべて満たしているかどうかを見定めることができるのである。
記譜法か歴史か [6/9]
文学のテキストについて述べてきたが、同じことは明らかに音楽の楽譜にも当てはまる。たしかに、楽譜のアルファベットはテキストのそれとは異なる。また、楽譜上の符号は、テキスト上の符号のように一列で順々に並べられるのではなく、より複雑な配置で並べられる。とはいえ、楽譜の符号とそれが置かれる場所には限られた数の組み合わせしかない。それゆえ、楽譜の場合も、若干広い意味においてではあるが、ある作品の本当の事例であるための要件は綴りの正しさだけである。
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楽譜の場合:
記譜法か歴史か [7/9]
一方、音楽の演奏についてはどうか。〔…〕演奏はアルファベットからとられた符号からなるものではない。むしろ、ある交響曲の演奏であるために必要な本質的性質は、当の楽譜において指定されている性質である。そして、その楽譜に準拠した諸々の演奏は、テンポや音色やフレージングや表現力といった音楽的な特徴の点で互いに明白に異なりうる。実際、ある演奏が特定の楽譜に準拠しているかどうかを確かめるには、〔楽譜の〕アルファベットについての知識以上のものが必要になる。そこで要求されるのは、楽譜上の視覚的記号と適切な音を結びつける能力〔…〕である。〔…〕とはいえ、その場合でも、演奏が楽譜に準拠しているかどうかを判定するためのテストはたしかにある。そして、ある演奏は、その演奏解釈上の忠実さやそれ独自の〔演奏としての〕長所がどうであれ、このテストを通過するかどうかによって、特定の作品の本質的性質をすべて持っているかどうか、つまり厳密にその作品の演奏なのかどうかが言える。
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演奏の場合:
記譜法か歴史か [8/9]
一方、絵画の場合は、そうした〔文学や楽譜のような〕符号のアルファベットがない。それゆえ、絵画的性質——絵が絵として持つ性質——はどれも本質的な性質かそうでないかを区別できない。そうした特徴はどれも偶有的な性質として却下することはできないし、どんな〔標準からの〕逸脱も重要でないものとして片づけることはできない。そういうわけで、目の前にあるこの《ルクレティア》が本物であることを確かめる唯一の方法は、それがレンブラントによって制作された対象であるという歴史的な事実を確証することである。結果として、当の芸術家の手になる制作物としての物理的な同一性と、その帰結として出てくる個々の作品の贋作という概念が、絵画における一つの重要さ―—文学にはないもの——を担うことになる。
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絵画の場合:
記譜法か歴史か [9/9]
おそらく、すべての芸術はもともとオートグラフィックである。歌や朗読のように作品が一時的なものである場合か、あるいは建築や合奏音楽のように作品の制作に大人数を必要とする場合に、時間や個人という限界を超えるために記譜法が考案されるのだろう。これには、作品の本質的性質と偶有的性質の区別を確立することが必ず伴う〔…〕。
記譜法の利点
制作の歴史から完全に自由なかたちで作品を確定的に同定することは、なんらかの記譜法が確立されてはじめて可能になる。アログラフィックな芸術は〔制作の歴史からの〕解放を宣言によってではなく、記譜法によって勝ちとったのである。
ちょっと休み
3. ピエール・メナールのケース
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見分けのつかない別作品
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「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」
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メナールケースをどう説明するか
見分けがつかない別の作品 [1/2]
グッドマンの問いと答えをあらためてまとめると
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グッドマンの問い:
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オートグラフィックな(贋作可能な)芸術形式とアログラフィックな(贋作不可能な)芸術形式の違いが何に由来しているのか。
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グッドマンの答え:
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制作の歴史と物理的同一性によって作品の同一性を判断するしかないか、記譜法によって作品の同一性(本質的性質)を確定できるかの違い。
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見分けがつかない別の作品 [2/2]
グッドマンの説明に対する反例
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しかし、グッドマンの説明に対する一見したところの反例がある。
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具体的には、一定の記譜法のもとでまったく同じ綴りを持っているが、にもかかわらず、まったく別の作品と見なされる文学作品の例がある(音楽作品にも同様の例がありえるかもしれない)。
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その例として頻繁に言及されるのは、ボルヘスの『伝奇集』に所収されている短編「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」に登場するピエール・メナールの作品※。
※ややこしいが、このボルヘスの短編作品自体の存在のあり方が問題になっているのではなく、この短編作品の中で紹介されている『ドン・キホーテ』という作品(架空の作品)のあり方が問題になっている。ピエール・メナールという作家もその作品も非実在だが、そういう作品があることは十分に想像可能なので、反例として一応は機能する。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」[1/6]
あらすじ①
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語り手(ボルヘス)の知人、フランス人作家のピエール・メナールが亡くなった。メナールは、プロテスタント偏向があり、ポー、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーなどから大きな影響を受けた象徴主義の作家だった。
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語り手は、寡作だったメナールの公刊された著作をざっとリストアップした上で、公刊されていない未完の作品——「かぎりなく英雄的な、比較を絶した作品」——とその構想を、追憶とともに紹介していく。
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この未完の作品は、「『ドン・キホーテ』第1部の第9章と第38章、さらに第22章の断片からなっている」。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」[2/6]
あらすじ②
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メナールの構想は次のようなものだった。
彼は〔…〕『ドン・キホーテ』そのものを書こうとした。いうまでもないが、彼は原本の機械的な転写を意図したのではなかった。それを引き写そうとは思わなかった。彼の素晴らしい野心は、ミゲル・デ・セルバンテスのそれと——単語と単語が、行と行が——一致するようなページを産みだすことだった。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」[3/6]
あらすじ③
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メナールは、この構想を実現する手段として、はじめセルバンテスになりきる(17世紀のスペイン語に熟達する、カトリック信仰を取り戻す、1602年から1918年までの歴史を忘れる、etc.)ことを考えたが、安易かつ面白くないということで、すぐに却下した。
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代わりにメナールが選んだのは、ピエール・メナールその人として『ドン・キホーテ』を書くという道だった。
何らかのかたちでセルバンテスとなり、『ドン・キホーテ』に達することは、ピエール・メナールであり続け、このピエール・メナールのさまざまな経験をとおして『ドン・キホーテ』に達することほど困難ではない——したがって興味を引かない——と思えたのだ。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」[4/6]
あらすじ④
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このメナール自身による『ドン・キホーテ』の実際の執筆プロセスは、次のようなものだった。
わたし〔メナール〕は、彼〔セルバンテス〕の自然発生的な作品を逐語的に再現するという、奇妙な義務をみずから引き受けたのです。わたしの孤独なゲームはふたつの極端な法則によって支配されています。第一の法則は、形式的および心理的なタイプの異文をわたしに試みさせます。第二の法則は、それらの異文を「原典」のために犠牲にし、この消去を反論を許さぬかたちで正当化します……。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」[5/6]
あらすじ⑤
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語り手は、こうやって書かれたメナールの未完の作品が、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の一部と一言一句同じであるにもかかわらず、その内容も文体もセルバンテスのそれとまったく異なることに驚く。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」[6/6]
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り手は、このメナールの未完の作品が、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の一部と一言一句同じであるにもかかわらず、その内容も文体もオリジナルとまったく異なる
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セルバンテスは次のように書いている(『ドン・キホーテ』第1部第9章)。
……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の承人、現在の規範と忠告、未来への警告。
17世紀に、「無学の天才」セルバンテスによって書かれたこの列挙的な文章は、歴史への単なる修辞的な讃辞でしかない。ところが、メナールはこう書く。
……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管所、過去の承人、現在の規範と忠告、未来への警告。
歴史、真実の母。この考えは驚嘆に値する。ウィリアム・ジェイムズの同時代人であるメナールは歴史を、真実の探求ではなく、その源泉と規定する。歴史的真実は彼にとって、かつて起こったことではない。かつて起こったとわれわれが判断するところのものだ。末尾の句〔…〕は臆面もなく実用的である。
メナールケースをどう説明するか [1/4]
メナールケースの何が問題か
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グッドマンは、記譜法を持つタイプの芸術形式は、綴りの同一性によって作品の同一性が決まる(それゆえ作品の同一性を判定するのに制作の歴史を気にしなくてもよい)と主張した。
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文学は明らかに記譜法(アルファベットによる書記システム)を持つ。それゆえ、綴りの同一性は保証される。
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セルバンテスの『ドン・キホーテ』とメナールの『ドン・キホーテ』は、綴りにおいて(少なくとも部分的に)同一である。しかし、作品としては明らかに別である。
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ということは、綴りの同一性と作品の同一性は、同一視できない。
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ということは、グッドマンの主張は部分的に間違っている。
メナールケースをどう説明するか [2/4]
分析美学におけるメナールケースの扱い
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メナールケースを芸術存在論の文脈で持ち出した早い例は、アンソニー・サヴィルによるグッドマン批判の論文だが、その後、分析美学の中でこのメナールケースは擦られ続けている。
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SEPの芸術存在論の項目に、芸術存在論とメナールケースの関係についての簡単なサーベイがある。けっこういろんな人がメナールケースに言及しているらしいが、基本的には、「互いに見分けがつかない(識別不可である)が別々の作品」というケースの代表例として持ち出されるのが大半だと思われる。
メナールケースをどう説明するか [3/4]
メナールケースをどう説明するか
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文脈主義的に説明するのが標準的な考え方だと思われるが、他の方向もあるかもしれない。ちょっと考えてみてください。
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この場合の「文脈主義」は、作品の同一性を判定するときに、文学や音楽のような記譜法を明確に持つ芸術形式であっても、制作の歴史や作者や場合によっては物理的同一性を気にすることがあるよね、というくらいの立場。
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ちなみにグッドマン自身は、批判への応答として、メナールの『ドン・キホーテ』とセルバンテスの『ドン・キホーテ』は同じ作品(解釈の仕方が違うだけ)だと強弁している。
メナールケースをどう説明するか [4/4]
メナールケースからの教訓
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実際にボルヘスの短編を読んでみると、そこでボルヘスが言いたいことは、哲学者たちが論じている事柄(互いに識別不可だが別々の文学作品が存在する!)よりももっと複雑な事柄なのがわかると思われる。
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もちろん、哲学者には哲学者のモチベーションがあって、その関心のもとでメナールの『ドン・キホーテ』という架空の作品を例として使うわけだが、実際の文学作品はもっと豊かな読みを許容する。
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文学が偉いとか哲学が雑とか言いたいわけではなく、作品を作品として読むということと、それを何かの例(あるいは話のネタ)として使うことは別なので、混同しないようにしましょうということ。
勉強用の文献
引用・参照したもの
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ネルソン・グッドマン『芸術の言語』戸澤義夫・松永伸司訳、慶應義塾大学出版会、2017年
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J. L. ボルヘス『伝奇集』鼓直訳、岩波文庫、1993年
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Jerrold Levinson, "Autographic and Allographic Revisited," Philosophical Studies 38 (1980).
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Anthony Savile, "Nelson Goodman's 'languages of art': A study," British Journal of Aesthetics 11, no. 1 (1971).
その他おすすめ文献
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西條玲奈「N. グッドマンの贋作論と芸術家のスタイル」Art Research Online、2021年.
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さくっと読めておすすめ。
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フランク・ウイン『私はフェルメール:20世紀最大の贋作事件』小林頼子・池田みゆき訳、武田ランダムハウスジャパン、2007年
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贋作と言えばあの人、というくらい有名なハン・ファン・メーヘレンについてのドキュメンタリー本。読み物として面白いのでおすすめ。
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期末レポートについて
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この授業では、期末レポートの課題を出す予定です。
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課題の内容、評価の観点、提出期限、提出方法などの詳細は、Scrapbox上で共有します(今週中くらいをめどに共有します)。
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いまのところ、締め切りは、学部4回生と修士2回生(いずれも留年予定者含む)は1月末、それ以外は2月中旬になる予定です。
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課題の内容は、「特定の文化的なアイテムを取り上げ、その存在論的な特徴を説明せよ。ただし授業内で紹介された概念群を使えるかぎりで使うこと」といったものになる予定です。詳しくはScrapbox上で共有します。
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LLMの使用は制限しませんが、授業内容の理解度を重視します。
スライドおわり
メディア文化学/美学美術史学(特殊講義)#7
By Shinji Matsunaga
メディア文化学/美学美術史学(特殊講義)#7
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